瑠璃の発心(お薬師さん)(C)2004 RayLand
   (平成15年9月)

もう西国薬師49寺巡礼も、残すところ数ヶ寺になりました。多くの寺院を参詣しながら、いつの間にか自分の存在の本質を思うようになりました。

 東寺 金堂 七仏薬師如来像

●まず、「薬師如来」という存在について調べました。

薬師如来は梵語でバイサジャグル、正式名は薬師瑠璃光如来。東方浄瑠璃界の教主。「薬師瑠璃光如来本願功徳経」に薬師如来が菩薩で修行していたとき、十二の大願を立てられました。その内容は現世利益の強いもの。

仏教というと、葬式仏教などという言葉の通り、死後の世界を願う西方極楽浄土へのネガティブな現実逃避の思想だと思い込んでいました。

ところが、東方浄瑠璃世界というのがあるんですね。お薬師さんは、現世にあって、私たちをより高めてくれるんです。そこで「薬師本願功徳経」です。

●「薬師本願功徳経」は、お釈迦さまが文殊菩薩に「薬師如来」について語ります。
薬師さんが、菩薩のとき12の大願を立てて修行します。(詳細は、こちら

1、すべての人々をほとけにする。
2、すべての人々を明るく照らし、人々が善い行いをできるようにする。
3、すべての人々が必要なものを手に入れることができるようにする。
4、すべての人々を大乗仏教の正しい教えに導く。
5、すべての人々に戒律を保たせる。
6、すべての人々の身体上の障害を無くす。
7、すべての人々の病を除き窮乏から救う。
8、女であることによって起こる修行上の不利な点を取り除く。
9、すべての人々をさとりの妨げをなす魔から救い、菩薩の修行を修習させて完全なさとりに到達させる。
10、国法による災いなどの災難や苦痛から解放する。
11、すべての人々が飢えや渇きに苦しむことがないようにする。
12、すべての人々に衣服を与え、心慰めるものを与えて満足させる。

これが、現世利益(げんせりやく)ですね。

その「薬師経」では、お釈迦様から「薬師さん」のことを聞いていた人々のなかに十二夜(薬)叉大將がいて、大いに感動してそれぞれの眷属7千をひきつれて、「世尊よ。我等は相引いて皆、同一の心にして形を尽して佛・法・僧に帰依し、誓って一切の生きとし生けるものになって、道理と利益を作し、利益を与え安楽にする。従って何らかの村々・国々・人のいない林の中においても、この経を流布し、或いはまた、薬師瑠璃光如来の名号を受持し、謹み敬い供養する者がいれば、我ら眷属は、この人を衛護し、みな一切の苦難を消滅させる。あらゆる願いをことごとく満足させる。五色の糸でもって我が名字を結び、願い事を得て終わった後に結びを解くべし」といいます。

おわかりですね。これが、十二神将です。
近世になってか、十二という数字から干支(えと)と関連付けておまつりしているのですね。本来は、十二の大願を成就するための助けの仏ですよね。だから、解釈が一定していなくて、ところによっては、干支が逆だったりするんです。

●歴史的には、薬師如来信仰は仏教伝来当時からあったようです。平安密教の代表である最澄・空海は、比叡山・高野山に「お薬師さん」を安置しています。それもかなりの地位においてです。ですが、末法思想が横行してからは、やはり日本独特の無常観が生まれ、来世を欣求する厭世思想ともあいまって病気の平癒だけが信仰の対象になっていったのではないでしょうか。

ちなみに、両界曼荼羅においては阿しゅく如来が薬師如来そのものではないかと思います。また、金剛サッタもまた、薬師如来ではないでしょうか。わたしには、深い知識がないのでなんともいえませんが曼荼羅に「薬師如来」がないのは、そういう意味かと思っています。

●先日、高野山の大伽藍に行き金堂の「薬師如来」を拝観しました。驚きました。

それは、通常お薬師さんは、「薬師三尊」とも言われ、薬師如来の両脇には、「日光菩薩・月光菩薩」が脇侍としています。それを、十二の神将が守っています。前に竜王の寺院に行ったら、「梵天・帝釈天」さんが十二神将とともにいらっしゃいました。四天王が守っている場合もあります。

高野山の金堂の「薬師如来」は、
  降三世明王 金剛王菩薩 薬師如来 金剛サッタ 不動明王 と並んでいます。やっぱりもっと曼荼羅を勉強しないとだめですね。ちなみに、最近高野山でも見直されてきたのでしょうか末院の12院が、薬師十二神将の絵仏軸をまつり、「薬師十二神将めぐり」をはじめたとか。 金堂の仏像配置について。

●お薬師さんをお参りしても、本当の意味で自分を深めるには、ただただお祈りするだけではだめですよね。私は、宗教がその体系を形造る上で、「戒律」を重視していることに着目します。

キリスト教の「十戒」やイスラム教の法典。仏教の例外ではありません。(詳細は、こちら)しかしいろいろな宗教では、「贖罪」・「免罪」という概念があります。「懺悔」すれば、「免罪」される。「禊(みそぎ)」すれば、救われる。おそらく、信仰というのは、人がその存在の不安や恐怖が根底にあり、底知れない恐怖感や苦渋から開放される精神世界なのでしょう。

仏教は、そういう意味からいうと、宗教というより、哲学に近いですね。「懺悔」しても救いがない。絶対神としての「神」が無く、自らが「ブッタ(悟りを啓いた人)」に近づくこと=仏教だとすれば、その通り。辛く、ひどい宗教ですね。だからこそ、興味が尽きないのかもしれませんが。

でも、戒律に縛られてばかりの修行僧の生活は、私たち衆生には無理ですよ。「・・・してはダメ!」(十善戒)ばかりでは耐えられません。ならば、「・・・しなさい!」(八正道)という目標や指標があれば、いいですよね。できるところから実践していけばいい。もっと深いところでは、「六波羅蜜」なんてすごいのがあります。

その中で、「布施波羅蜜」、「忍辱波羅蜜」はできそうだ。
 眼施(がんせ)      優しい眼差しで人に接する。
 和顔施(わがんせ)   和やかな明るい顔で人に接する。
 言辞施(ごんじせ)    優しい言葉をかける。
 身施(しんせ)      身をもって布施する。
 心施(しんせ)      心の底から人を思いやる慈悲心を施す。
 牀座施(しょうざせ)  先輩やお年寄りに自分の席を譲る行為。
 房舎施(ぼうじゃせ)  困っている旅人に一夜の宿を提供したり、休憩の場を提供したりする行為。
自分に侮辱や損害を与え、人を裏切るような相手に対しても、単に怒りや恨みの心を抱かずに、慈悲心から、
そういう不幸から救ってあげようとする気持ち。

●いままで、「いかに生きるか」ばかり考えていました。それは、社会的な方法論や処世術です。そうして、年齢を重ねて、知らないうちに「いかに死ぬか」に変わっていったようです。

私は、日本文化としての「無常観」を否定してみたいと、仏教の勉強を始めました。アンチテーゼとしての「常観」です。「六道輪廻」は、「恒常的絶対存在」が前提でしょうか。

としたら、「終わり」や「終息」という概念の否定から、「いかに今を生きるか」が「恐怖」や「不安」を「どう解釈し、ともに過ごすか」が、命題ということになりますね。

これからも、勉強していこうと思っています。

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