ブッダ最後の言葉「不放逸」についてーーーアッパマーダ(appamâda)



ブッダは、悟りを開いたのち45年もの間、ブッダを慕ったもの、あるいは救いを求めて集まってきた人々に語り続ける。自己の悟りを唯一の支え(自灯明)として、他者が、あらゆる生き物が、苦しみから解き放たれてほしい(慈悲)と布教(転法輪)する。後の仏教徒は、それを「大悲」と呼ぶ。

 ブッダ最後の言葉――自らの死期を知ったブッダが涅槃の床にあって、そばで悲しむ弟子たちに言い残した最後の言葉。この句を残して、ブッダは「不動」にして「寂静」なる定に入られた。(大般涅槃だいはつねはん)

 「あらゆるものごとは無常なものだ。(それゆえに)怠ることなく努めなさい。」(パーリ伝承経句)

 「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい。』と。これが修行を続けてきたものへの最後のことばであった。
                    (中村元訳「ブッダ最後の旅―大パリニッパーナ経」)

 「汝ら、まさに知るべし。一切の所行は、みなことごとく無常なり。わが身、これを金剛の体といえども、またまた、無常の所遷を免れず。生死の中、きわめておそるべしとなす。汝ら、宜しく、まさに勤めて精進を行い、すみやかにこの生死の火坑を離るることを求むべし。これすなはち是は、我が最後の教えなり。」                     (大正蔵七番『大般涅槃経』)

 「比丘らよ、放逸を為すなかれ。我は不放逸を以っての故に、自ら正覚に到れり。無量の衆善も亦、不放逸に由りて得らる。一切万物に常在なる者なし。此れは是れ、如来末後の諸説なり。
                           (大正蔵一番『長阿含経』「遊行経」)

 「動物・静物のすべては滅する。それゆえ、汝らはよく注意深くあれ。(私が)涅槃すべき時がやってきた。汝ら、言うことなかれ。これが最後の言葉である。」
               (御牧克己 訳『ブッダチャリタ』・・・古典チベット語翻訳)

「精進こそ不死の道 放逸こそは死の道なり/ いそしみはげむ者は 死することなく/ 放逸にふける者は 生命ありとも すでに死せるなり/ 明らかに この理を知って いそしみはげむ 賢き人らは/ 精進の中に こころよろこび/ 聖者の心境に こころたのしむ 」 (法句経ダンマパダ)


「解脱したいと欲する人々は、けっして放逸であってはならない。」
                       ad. 400年   (『倶舎論』ヴァスバンドゥ)


 それでは、「放逸」とはどうなることなのだろう。

放逸とは、悪を防ぎ善を修することに対してだらしなく、精進を怠ることである。懈怠と似ているが、放逸は、懈怠および貪・瞋・癡の三不善根の上に、悪を防がず、善を修せざる状態に対して、特に指摘されるものである。                             (wiki)
不放逸とは、仏道=appamâdaを行すること。初期仏教では、苦しみをなくす方法。苦しみはこころの汚れ(煩悩)があるから生まれる。だから、こころの汚れを断つための手段はまとめてappamâda なのである。布施をしたり、他に親切にしたりする当たり前の行為も、戒律を守ったり道徳を重んじることも、冥想することもappamâda。悟るための努力がappamâdaである。
  (日本テーラワーダ仏教教会)
「不放逸」はパーリ語でアッパマーダ(appamâda)という。現代シンハラ語では、「アッパラマーデするな」というのは、「遅くなるな、早くしなさい」という意味。例えば、待ち合わせで「待たせるな」というときも、「アッパラマーデ」という。一生懸命頑張るという意味解釈はないらしい。
  
釈尊が生きながらえることに執着すること(放逸)の無意味に気づくこと。「不放逸」は行を実践するとき(者)にのみ成り立つ言葉である。面白いのは、ブッダの直弟子の多くは、すでに出家し修行生活を送り、「もはや再び生まれ変わって、輪廻の苦しみを受けることはない」阿羅漢であった点。要するに、ブッダがいなくなっても、生身の体に執着して、ブッダの死に惑わされたり、悲しみに打ちひしがれ、不注意にも感情におぼれ、心が放逸となり、いままで続けてきた、世欲を離れて清浄な修行生活を途絶えさせてしまわないように、注意深く怠ることなく、それぞれの得た覚知を実現して、やがてはブッダと同じ涅槃に入るのだという意思を堅持して、精進し続けなさいという遺言である。

 ある神父さんのHPに、『聖書の中に「思い出す」という言葉が出てきます。ギリシャ語で「アナムネーシス」と言うらしい。これは、「想起する」とも訳されていて、哲学者のプラトンなども使っている。善や美のイデアを、人は忘れている。それを「想起する」のだと。聖書で、この言葉が出て来るのが、あの「最後の晩餐」の話である。十字架につけられる前の最後の夜の食事。イエスはみんなに、パンとぶどう酒を配って、こう言われた。「私を思い出す(記念する)ため、このように行いなさい。(コリント11章) パンとぶどう酒をいただく時に、その目の前に、ありありとイエスさまがいるような気がします。私たちも最後の晩餐をイエスさまとともにいるような気持ちになります。』とあった。

 キリスト教の追体験である「アナムネーシス」ではないが、釈尊の死を前に、いま比丘たちがなさねばならないことは、嘆き悲しむことではなく、遅れることなく自分も釈尊のように完全なる涅槃に入れるように「努める」ことなのである。のちに、大乗は芽生え、涅槃への道として「慈悲」「他利」が芽生え、「如来蔵」から、密教に発展し、弘法大師空海が真言密教で唱える「山川草木悉皆成仏」、すべてのものに仏性があるという理念にいたり、やっと衆生もまた、「解脱」できるものとなり、また新たに「不放逸」の意味合いを解釈していかねばならないと考える。


『新アジア仏教史03インドⅢ』第6章二 ブッダ最後の言葉―「不放逸」の教え  室寺義仁先生