三都神社の歴史

三都神社の社号は三都神社熊野三所権現。ご祭神は伊奘諾尊(いざなぎのみこと)・伊奘冊尊(いざなみのみこと)・須佐之男尊(すさのおのみこと)である。

境内社:春日社、発辰大神、熊野三宝荒神、稲荷大神、毘沙門天堂、吉祥水天宮、祖霊社。「三都」とは、摂津・河内・和泉の中心あたりに位置したからか。ここは天野街道を通って紀州熊野に向かう人々が参詣したことから、別名熊野神社とも呼ばれていたという。今熊神社ともいう。



現在の社殿のあたりから南側の広大な地域にかけて、金蔵寺という寺院の伽藍があり、三都神社はその鎮守社だったのではないかと考えられている。近くには光明院跡、西室院跡、地蔵院跡などの地名が残されていることから、明治時代の神仏分離によって金蔵寺は廃寺となり、この神社だけが残った。今も、階段の下には「文殊地蔵尊」という地蔵堂がある。

創建は、三十六代孝徳天皇のころ(西暦650年ころ)とも伝えられている。享保年中(1530年頃)兵火にかかり、社殿、堂塔、神宝類ことごとく消失した。現在の本殿は天保15年(1546年)9月、金蔵寺寺僧諦観が再建したと伝えられる。明治5年村社になり同41年12月神饌幣帛料供進社に指定された。(「三都神社略記」より)旧三都村の鎮守であるが、今は今熊・茱萸木・大野・口大野・岩室・山本・山伏・隠(かくれ)・池ノ原・西山台・大野台が氏子となっており、産生神(うぶすながみ)氏神として崇敬されてきた。

 三都神社には別宮として三都戎神社がある。『三都神社略記』には次のように記されている。「昭和21年に大東亜戦争後の社会不安はその極に達し、経済生活もまた混乱動揺言語に絶するものあり。この時に正常な経済、正しい商売繁盛の道、人の世のまことの福徳を求める人々の悲願により、昭和33年ここ三都神社境内を聖地として社殿の竣工を見、戎大神を勧請奉祀が実現し、戎講役員により1月10日の戎祭りには吉兆受興・福引・大もちまきの神事が行われ、遠近よりの参拝者は境内に溢れ、爾来年を重ねる毎日崇拝者は増加している」と。三都戎神社では、エビスさんを呼ぶための「板とトンカチ」が用意されている。

 また、同じ略記に「末社に、春日大社、稲荷大社の二社あり、さらに各村にあった八社(岩室の熊野神社・愛宕神社・琴平神社・厳島神社、大野の八幡神社、茱萸木の八幡神社、西山の琴平神社、山本の稲荷神社)を明治41年12月23日合祀して三都神社と改称し、10月11日を例祭と定めた」とある。一般に琴平さんと呼ばれているが、


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