天野街道

 天野街道は西高野街道と堺市岩室で分岐して「女人高野」ともいわれる天野山金剛寺へと向かう信仰の道です。岩室・今熊で西高野街道から分かれ、左が西高野街道、右が天野街道, 天野街道に入り陶器山、 河内と和泉の国境の尾根道。

 一説には、天野街道の起点は、岩室山観音寺の大門(今のマダン?)からで、終点が天野山金剛寺山門と言われる。また、下高野街道の池之原から「ちゃせ道」を上がってくると、西高野街道にきて、そこから、天野山に行けるルートもあった。

 天野山金剛寺は、南北朝時代、京への道の一つであった。また、天野で河泉街道(槙尾山施福寺から葛井寺への巡礼街道と重なる)に接続する。要するに、泉南地方や和泉から、河内長野に抜けて、高野山や藤井寺、また堺へ続く街道のかなめが、金剛寺でもあった。

 和泉から天野街道を北に進み、三都神社から下高野街道で、天王寺。中高野街道で藤井寺。西高野街道で堺に行ける。

  天野山金剛寺

天野山金剛寺は、高野山は女人禁制であることから女人高野寺とも呼ばれ信仰を集める、

奈良時代に聖武天皇の勅願により行基が開いたとされる。弘法大師(空海)も修行をしたとされている。平安時代末期に高野山の僧・阿観(あかん)が金堂・御影堂などを建立し、再興した。
南北朝時代には南朝方の勅願寺とされ、後村上天皇の行在所(あんざいしょ)ともなった。また、北朝の光厳・光明・崇光天皇の行在所とされた時期もあった。その後、戦火にも遭うことがなく、貴重な文化財が数多く残されている。


 出発地点は、岩室西交差点の南側に、昔観音院の大門があったとされ、そこが天野街道の出発点ともいう。道標は、西高野街道との分岐点①に立っている。


      



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