2.大阪狭山の岩室
(狭山の歴史から)
時 代 |
項 目 |
616 (推古) |
狭山池築造。 『日本書紀』、『古事記』に記載。 |
746 天平18 |
河内国丹比郡狭山郷 |
859 貞観1 |
陶器山で河内と和泉の民が須恵器を焼くまきの山をめぐって争う。 |
1001 長保3 |
『枕草子』に狭山池の記事。 |
1000年ころ |
下高野街道は、四天王寺を出ておわり坂下の三津屋で西高野街道に合流。 |
1263 弘長3 |
興福寺が狭山庄の支配を認められる。 |
1347 正平2 |
楠木正行(まさつら)、池尻城で足利軍と合戦。 |
1594 文禄3 |
池尻・岩室・今熊などが北条氏の領地となる。 |
1637 寛永14 |
茱萸木新田の開発が始まる。 |
1698 元禄11 |
このころ大野新田の開発が始まる。 (地名おくやま) |
1699 元禄12 |
岩室・今熊村、狭山藩領から天領となる。 |
1771 明和8 |
岩室村でおかげ参りが起こり、人々が伊勢へ参詣するようになる。 |
1849 嘉永2 |
幕末にかけて池尻、岩室、茱萸木新田、今熊ほかで寺子屋ができる。 岩室は、中林(東)氏の敷地にできる。 |
1869 明治2 |
狭山藩は廃止。河内と近江の領分は堺県と大津県に入る。 |
1889 明治22 |
市制・町村制実施。河内の国堺県狭山村、三都村発足。 三都村は、岩室村、今熊村、山本新田、茱萸木新田、西山新田、大野新田。山本新田の開発時には、すでに地名隠(かくれ)もあった? |
1896 明治29 |
郡制施行で堺県狭山村・三都村は、南河内郡になる。 |
1897 明治30 |
高野鉄道敷設。翌年1月大小路(現堺東)~狭山間開通。 |
1917 大正6 |
河内半田駅(現大阪狭山市駅)開設。 |
1931 昭和6 |
狭山村、三都村が合併し南河内郡狭山村になる。 |
1937 昭和12 |
四国八十八ケ所の出開帳が開かれるのを期に駅を開設。金剛駅とした。 |
1938 昭和13 |
狭山池北堤に村役場庁舎建築。さやま遊園開園。 (狭山遊園前駅) |
1945 昭和20 |
アメリカ軍艦上機が茱萸木に墜落。さやま駅の富士車輌爆撃を受ける。 |
1951 昭和26 |
町制施行。大阪府南河内郡狭山町 。 |
1952 昭和27 |
狭山池でボートレース開催。1959 住之江に移転。 |
1954 昭和29 |
府道堺河内長野線(現在の国道310号)開通。 |
1966 昭和41 |
帝塚山学院大学開校。 |
1969 昭和44 |
狭山ニュータウン入居開始。 |
1971 昭和46 |
府道狭山池富田林線完成。 |
1986 昭和61 |
陶器山トンネル開通。 |
1987昭和62 |
市制施行。埼玉県狭山市が先に名称を使用していたため、大阪狭山市となる。(河内狭山市と競った) |
2003平成15 |
平成の大合併の際に、堺市と合併する動きも見られたが、狭山市議会は合併協議会の設置請求を反対多数で否決した。 |
2000 平成12 |
さやま遊園閉園。狭山遊園前駅の名称が大阪狭山市駅に。 |
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