晴美台近辺の地名のはなし
                   

昔、堺は、和泉、河内、摂津の境にあったことから、「さかい」と名づけられました。泉北ニュータウンは、大阪府が開発した住宅地。千里ニュータウンを倣って、町名を「○○台」と統一して大阪府がつけた。


宮山台 昭和42年12月 西南部の山林に境内をもつ多治速比売神社にちなんでいます。

竹城台 昭和44年1月 かつて多くあった竹林と、住区のすぐ西に隣接する小谷城跡によります。

若松台 昭和45年4月 大蓮池周辺に松林が多く、古くは「若松之荘」と呼ばれたところから、名づけられました。

三原台 昭和46年4月 地区内にあった「三田原」という地名から文字をとりました。陶荒田神社の領地だった。

茶山台 昭和46年4月 茶畑が点在し「お茶山」と呼ばれてました。近隣の豪族や名士が月見や花見を楽しむ場所だったといいます。林羅山がこの地で茶会を開き詠んだ漢詩が残っている;

高倉台 昭和47年4月 高蔵寺があり、周辺地域が「高蔵寺」と呼ばれていました。

晴美台 昭和47年4月 ニュータウンで最も高い丘陵で、見晴らしが良いところから名づけられました。

槇塚台 昭和47年4月 地区内にもともとあった通称で、槇の木が多かったことと、陶器山七不思議の一つ「黄金塚」にちなんだ名です。一説に弘法大師が経巻をこの丘に埋められたことから、巻塚(まきづか)と呼ばれていた。

桃山台 昭和47年4月 丘陵一帯に桃が栽培されていたことから名づけられました。

原山台 昭和49年4月 地区内の地名からとった名です。造成前は、山林地帯でした。

庭代台 昭和50年4月 造成前にあった集落の名からつけられました。周辺には「にわ(神)」のつく地名が他にもあり、歴史をうかがわせます。

御池台みいけ 昭和54年4月 「御池山」という旧地名にちなんでいます。光明池のことか。

赤坂台 昭和50年4月 「赤坂」という小字の名からつけられました。造成前は畑地と雑木林に占められていたといいます。

新檜尾台ひのお 昭和54年4月 「檜尾」は現光明池地区の大半を占めていた字の名。現在も同地区の東と西北にあります。

鴨谷台 昭和52年4月 現在も同地区3丁にある「鴨谷池」にちなんでいます。

城山台 昭和52年12月 南北朝時代の武将楠木正成の配下であった和田一族の山城(和田城跡)があったことから、名づけられました。

上神谷にわだに 古い時代には神のことを「みわ」といい、神が降りてこられた伝説があるこの地域は「上神郷」(かみつみわのさと)と呼ばれ、「みわのさと」が「にわのさと」となり、明治22年の町村制で北・中・南に分かれますが、明治27年には、合併して、同じ上神 郷の同じ谷筋にある村であることから、上神谷村(にわだにむら)となりました。

美木多 明治22年4月、町村制によって、大森・上・檜尾・別所の村々が合併。そのときに、このあたりは山が多く、美しい木が多いというところから名づけられました。

福泉ふくいずみ 昭和10年に、泉北郡鶴田村と泉北郡北上神村(きたにわむら)が合併して、町名をつけるとき、新しいまちの誕生を祝って、吹く福々しい泉の町、泉のようにこんこんと福の沸く町を願って『福泉町』と名づけられたそうです。

岩室、釜室、片蔵、富蔵、高倉(旧村の地名の由来)  須恵器の貯蔵庫(室、蔵)。

「見野山」の(中区)由来
『古事記』によると大田田根子命は三輪君や鴨君の祖となっている。大田田根子命は河内の美努村(みのむら)にいたことになっている。また八尾市上の島町に御野(みの)県主神社が鎮座、この辺りとも言われている。

「山本」(南区岩室)の由来
 江戸、明治の新田開発で、中区福田から隠、山本が、畑として開墾、開発された。
本村が「山本」で、「隠」「山伏」「口大野」などは、新田開発でできた枝村であった。

「山伏」(大阪狭山市山本)の由来 
山中で修行する山伏が、地元の寺で僧と囲碁の勝負をしたとか。

「隠」かくれ(中区陶器北)の由来
 1.南北朝時代に西高野街道を見張る場所に五本の松があって、丁度金剛山が隠れて見え
なくなるので『金剛山隠れ』と名付けられた。「金剛背隠(せがくれ)」と呼ばれ、
それが「金剛隠」「隠」となった。これがなまって『こごせかくれ』と呼ばれた説。
2.桃山時代に行われた豊臣秀吉の『太閤検地』の時に、隠し田があったから
3.小高い丘になっていて、二上山(三輪山)が隠れて見えなくなる場所だったという伝
承もある。(陶荒田神社の神主だった大田田根子命が三輪山の祭祀に招かれた伝承)。

「亀の甲」かめのこ(大阪狭山市)の由来
 1.現在は町名ではない。名前の由来は狭山池の南端近くに浮かぶ中島が亀の形に似てい
  たから。
2.狭山池の亀が甲羅干しに上ってきたから。
3.日照りで耕地がひび割れた様子が亀の甲羅のようだったから。
茱萸木新田、西山新田、大野新田(大坂狭山市)
1200年代から新田開発が行われて、新しい集落ができていく。

「大野」は、地元ではいまも「おくやま」と呼ばれている。

「三津屋」(大阪狭山市)の由来
 おわり坂を下りて、帝塚山学院大学の東の村落。西高野街道と下高野街道の合流点で、旅籠「三津屋」があった。池之原から茱萸木への間。

「高倉」(南区)の由来
 生家である家原村に帰った行基が、大村里(高倉台)の再興を期した。810年、弘法大師が参来。平安末期には、当寺に御行された第80代高倉天皇(1168~1179)から「高倉山天皇院」の山号と寺号を賜る。明治時代になって本坊および宝積院(ほうしゃくいん)本堂とこれらが所在する敷地を残し、数万坪におよぶ土地は政府に没収された。岩室観音院と親戚で、仲村姓。宮山台、石津川まで領地だった。

「光明池」(和泉市)の由来
「光明池」光明池は、和泉市国分町を流れる槇尾川の取水堰から導水している。国分町にある浄福寺で光明皇后が誕生したという伝説にちなんで光明池と名づけられた。ちなみに、夫の聖武天皇および異父兄の橘諸兄は久米田池の築造に尽力のあった人物でもある。

「福田」(中区)の由来
 江戸期に、陶器藩の小出有棟(こいでありむね)が大阪の豪商福島屋次郎兵衛の財を借り新田を開発しました。その福島屋次郎兵衛の頭文字をとって福田となりました。

「土師」(中区)はぜの由来・・・藤井寺道明寺の「土師(はじ)の里」と関係ありかと。
4世紀後半に中国や朝鮮から渡来した人々が、摂津や河内や和泉に住み着き そのうち数十名の人達が現在の土師に定住。当地の良質な土を使って『土器』を作り出した。以前から住んでいた人達は、この人達が作ったすばらしい作品を見て『土の先生』、即ち『土師』と彼等を呼ぶようになり、作り方を教えてもらおうと人々が集まり集落ができたとか。

「土塔」(中区)の由来
土地の人達は「どうとう」と呼んでいる。堺の家原寺で誕生した奈良時代の名僧行基が建てた大野寺の寺土内に土の十三重塔を築造しこれを土塔と称した。これから地名としてつけられている。現在、深井の公園の再現されている。

「深井」中区)(の由来
昔、行基がこの地の人々のために深い井戸を掘った。そのことから『深井』といわれるようになった。その井戸が深井中町の『外山家』の井戸であるとも、深井清水町の善福寺(ぜんぷくじ)の裏の井戸であるともいわれている。

「日置荘」(東区)ひきしょうの由来
 日置荘の地名は、古代、太陽神の祭祀をもって大和政権に奉仕していたといわれる、「日置部(ひきべ)」集団の居住地であり、また、中世には興福寺の荘園であった「日置荘」がおかれたことに由来するといわれています。

「八田荘」(中区)はったそうの由来
行基の母親は、蜂田古爾比売(はちたのこにひめ)といいました。この蜂田連(はちたむらじ)という一族が、この辺りに住んでいた。その後この辺りが荘園になったとき、蜂田の荘園、八田の荘園といわれました。


池や谷の名前
 大阪平野の南部は、おおきな川もなく、瀬戸内気候で、小さな谷あいに人口のため池をつくって灌漑用水とした。すべての池には、名前がある。大きな川は、西の石津川(妙見川)。東の西除川だけだった。晴美台には川はない。

・ おわり坂・・上今熊から下今熊への坂道
        1.狭山池の護岸修復工事の尾張藩の土木技術者集団「尾張衆」か。
        2.急坂なので、心臓破りの「大壊れ坂」か。

・ がたろう池 ・・カッパ伝説、プール学園のあたりか。三つ割池のことか。

・ やまん谷(梵字が原)・・トンネル付近

三つ割池・・晴美中学校 池争いのなごりが地名か。釜室、高倉、岩室?

・ 狸山・・テニスコートのあたりは、山だった。

西山・・陶器山や宮山を総称して、岩室では「西山」と呼ぶ。

・ みろくがいと(弥勒垣内)・・晴美幼稚園駐車場付近東側。岩室の観音端。

  陶器川水源・・岩室の真ん中に谷があるが、東海フットサル場のみなん(南)谷池からコーナン・岩室墓地
             阿弥陀池、から石津川にながれる川の源流である。

・ 新池・・岩室近くに「新池」という名の池が、3つある。すべて、人造の灌漑池。晴美台の新池は、高倉村との境で
       戦前には、岩室の雨乞い儀式の池。干上がった池の真ん中で大きなたき火(とんど)をして、「たんもり 
       たんもり じゅごいの 雲に しるけは ないかいな」と村人全員でお祈りし、青年団の数名が裸足で、高
       野街道を高野山まで往復してお札をもらいに行った。

・ こまが谷・・新池の西側。新池からトンネルがあって、水を引いた。

・  阿弥陀池
        1、岩室では、観音院の阿弥陀像を池に沈めて、秀吉の紀州攻めの火事から守った。お寺は全焼した
          が、阿弥陀さんだけ助かった。
        2、行基伝説。高倉の宝積寺の阿弥陀仏を大火の時に守ったとか。高倉寺は、西は石津川、東はこま
          が谷(田園の谷)まで、寺領だったとか。
         (大阪市内の「阿弥陀池」は、大きなお寺の阿弥陀如来の浮見堂があった。)

  ■始めに 堺市岩室・晴美台地区の歴史 ■大阪狭山の岩室  ■60年前の地図 ■岩室の民俗 
  ■岩室の通過儀礼 ■岩室の年中行事 ■岩室の民間信仰 ■岩室山観音院 ■陶器城 ■陶荒田神社 
  ■三都神社 ■天野街道 ■高野街道 ■陶器山七不思議