秘密曼荼羅十住心論 (ひみつまんだらじゅうじゅうしんろん)

                                  弘法大師 著 

金剛界曼荼羅の五智五仏を理解するために、唯識の教えを学ぶ必要があります。
ここにその一端ともいえる、紹介をします。でもあまりにも深く、難解ですね。

                   参考 曼荼羅のおしえ ─祈りと悟りの造形に学ぶ 小林暢善
                       http://www.ermjp.com/bukyou/manda/oshie/oshie.html

インド仏教における心理学とも言える唯識(ゆいしき)説では、私達の精神作用を
前5識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識)、
第6識(意識)、
第7識(末那(マナ)識)、
第8識(阿羅耶(アーラヤ)識)に分け、次第に表層から深層へと深下してゆく心の重層的構造を説いています。

密教ではさらに第9識(阿摩羅(アーラマ識)を加えます。  


胎蔵曼荼羅 中台八葉院
赤い八葉蓮華

大日如来(中央)
宝幢(ほうとう)如来(東)
普賢菩薩(東南)
開敷華王(かいふけおう)如来(南)
文殊菩薩(西南)
阿弥陀如来(西)
観音菩薩(西北)
天鼓雷音(てんくらいおん)如来(北)
弥勒菩薩(東北)

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●『金剛頂経』の五相成身観(ごそうじょうじんかん)を見ますと、中台八葉院の八仏と合わせて、

前5識 成所作智(じょうそさち)  (不空成就如来の智恵)
成所作智は、眼耳鼻舌身の五感を正しく統御し、それらによって得られる情報をもとに、
現実生活を悟りに向かうべく成就させてゆく智恵である。
      ↓
菩提心を発して(宝幢如来
      ↓
第6識 妙観察智(みょうかんざっち)  (阿弥陀如来の智恵)
妙観察智は、万物がもつ各々の個性、特徴を見極め、その個性を活かす知恵である。(阿弥陀如来)
      ↓
修行をし(開敷華王如来)、
      ↓
第7識 平等性智(びょうどうしょうち)  (宝生如来の智恵)
平等性智は、森羅万象を平等に観る智恵で、万物が大日如来の化身であり、平等の仏性を
もつ事を覚る智恵である。
      ↓
やがて菩提(悟り)に至り(阿弥陀如来)、
      ↓
第8識 大円鏡智(だいえんきょうち)  (阿しゅく如来の智恵)
大円鏡智は、鏡が一切の事象をありのままに分け隔てなく映し出すように、一切をあるがままに
受け入れ、分別をしない智恵である。
      ↓
涅槃の境地に向かう(天鼓雷音如来
      ↓
第9識 法界体性智(ほうかいたいしょうち)  (大日如来の智恵)
法界体性智は、永遠普遍、自性清浄なる大日如来の絶対智であり、他の四智を統合する智恵
である。

心の発展過程(発心→修行→菩提→涅槃)が、そのままに曼荼羅という形をとり、
それが自らの心の内の障害と外からの要因の防御という意味を持って、地獄があり
明王や四天王、力王、などが存在する。(外院)


http://www.geocities.jp/jyoryuzi3/jyujusinron.html 常瀧寺

弘法大師は、真言密教の悟りに至るまでの、心の段階を10段階に分けて示され、天長7年830年に淳和天皇に贈られています。
十住心論(じゅうじゅうしんろん)とは空海(弘法大師)の主著で、さまざまな人間の精神の程度レベルを、
十種類に区分して、まるっきり善悪の判断もできないような最低の心の持ち主を、最も程度の低い第一住心として、
それからだんだんと心の持ち方が向上していく過程を、第二住心、第三住心と数を増して位を上げてゆき、
十住心まで説かれています。

第一住心から第三住心までは無宗教の俗世間の立場であり、私達人間が到達できる範囲です。
第四、五住心からが出家、佛教に入ります。小乗仏教で自らの解脱を追求します。
第六・七住心は主としてインドの大乗佛教とされているもので、自他の区別なくより深い救済のレベルを目指します。
第八、九住心は顕経〔仏教〕の最高レベルで、真の大乗佛教が始まり、それは天台、華厳です。
そして最後の終点として第十住心があり、心は大日如来と一つになり真理に到達するのです。〔真言密教の到達点〕
この最上段に秘密荘厳心(ひみつしょうごんしん)という真言密教によって到達できる境地を描いています。

人間の最高の精神の在り方、つまりこれこそが最上級の十住心であると判定されて、
宗教をはじめ、哲学、思想までをひっくるめて批判するという手法を用いられています。。
他の宗派批判という形をとって、真言宗が最高であるとしているのです。

『十住心論』とは、正確には『秘密曼荼羅十住心論』、その要約の略本が『秘蔵宝鑰』です。
この十住心論は大師が晩年にお書きになった十巻からなる大作で、大師の生涯における
真言密教の教学の集大成とされているものです。
    (青文字が本文です。なお、意訳等は、ちくま学芸文庫『空海コレクション1』を参照しました。)

第一住心
異生羝羊心 (いしょうていようしん)

 「凡夫狂酔して、吾が非を悟らず。但し淫食を念ずること、彼の羝羊の如し。」
  ぼんぷきょうすいして、わがひをさとらず。ただし、いんじきをねんずること、かのていようのごとし。」


  無知なものは迷って、自分の迷いを悟っていない。雄羊ように、ただ性と食を思い続けるだけ。

禽獣の如き心の段階をいい、欲望のあることを知って、その欲望の意味も調整する方法も知らない。
人間以前、倫理道徳以前の状態。
性交(愛欲)、衣食住のことしか頭に無く、何も考えず本能のままに生きている、つまり無明の闇が最も深い常態。
動物のように、欲望のままに生きる心。 善・悪を弁えることのできない迷いの心。
自我に囚われ、自己所有への執着を常に胸中に懐いている状態。

「喩えば獣が陽炎を追って水をもとめ、(蛾が)華やかな火に飛びこんで身を焼くようなものである。
さながら雄羊が水草や婬欲のみを思っているのと同じであり、さてまた無知な子供が水に映った月を
欲しているようなものである。」


第二住心
愚童持斎心 (ぐどうじさいしん)
 「外の因縁に由って、忽ちに節食を思う。施心萌動して、穀の縁に遇うが如し。」
 ほかのいんねんによって、たちまちにせつじきをおもう。せしんほうどうして、こくのえんにあうがごとし。」


 他の縁によって、すぐさま控えようとおもう。他の者に与える心が芽生えるのは、穀物が発芽するのと同じ。

儒教的道徳倫理が芽生える段階。
愚かな少年の心も、導くものあれば自らを慎み、他に施す心が起きる。
倫理に目覚めた段階の心の状態。
ある程度人生経験などを積み、世界を学習しながら倫理、道徳性に目覚める段階。
道徳の教えにより人間としてやや善なる心がきざしはじめる心。
徳の高い人を見て敬い、供養する。あやまちを知れば必ず改め、賢人を見てはそれと等しいものになろうと思い、
初めて因果の道理を信じ、だんだんと善い行いと悪い行いの報いの結果をうなずく。両親に孝行をし、
国に忠義をつくす心の状態。

「例えば、節食してそれを他の人びとに与えることを喜び、親しき者・疎き者のわけへだてなく施しをする。
足るを知る心が次第におこる。


第三住心
嬰童無畏心(ようどうむいしん)
 「外道天に生じて、暫く蘇息を得。彼の嬰児と、犢子との母に随うが如し。」
 げどうてんにしょうじて、しばらくそそくをう。かのえいじと、とくしとのははにしたがうがごとし。」


 天上の世界に生まれ、しばらく復活できる。まるで幼児や子牛が母に従うように一時の安らぎにすぎない。

宗教的心情が芽生える段階。道教・インド哲学諸派
仏教以外の宗教でもこの世の限界を知るとき、それを超えて死後の安楽を願うものである。
この段階の宗教心は、ちょうど幼児が母のふところにいる間は世間の苦しみを知らず安らかな状態。
世界の理不尽さ、無常さを実感し始め、宗教、哲学心が芽生えだし、自己との対峙、葛藤が始まる段階。
仏の戒めを知り、来世に良い生まれ変りを望む心。
戒めを守り、来世の安楽だけを願う世界。
戒めを守ることによって、現世において、もろもろのすぐれた恩恵を得、大いなる名声と利得によって
身心が安楽になる。ますます賢い善き心を増し広げて、死後には天界に生まれることができる。


第四住心
唯蘊無我心(ゆいうんむがしん)
 「ただ法有を解して、我人みな遮す。羊車の三蔵、ことごとくこの句に摂す。」
 ただほうゆうをげして、われひとみなしゃす。ようしゃのさんぞう、ことごとくこのくにせっす。

 ただ物のみが実在することを知って、個体存在の実在を否定する。教えを聞いて悟る者の説は
 みんなこのようなものだ。


存在や現象は五つの要素の集まりにすぎないという「無我」説の段階(声聞)。
事物の本質は存在せず、人も万物も仮の存在を保つという宗教的認識の第一段階の心。
無明の闇の中を彷徨っている最中、思わぬ縁によって仏教に出くわし、仏教を学び始める段階。
いわゆる禅に云う十牛図の「尋牛(じんぎゅう)」の始まり。
ここで自分が今まで無明であったことに気が付き、法門が開きだす。
声聞(仏様とくにお釈迦様の言葉を聞いて悟る者)の境地。
自我には、実体がないことを知る。自分の感じ知ることは五つの存在要素(五蘊)がかりに和合した
ものにすぎないと知る。自我を幻化・陽炎の例にたとえて明らかにする。


第五住心
抜業因種心(ばつごういんしゅしん)
 「身を十二に修して、無明、種を抜く。業生、已に除いて、無言に果を得。」
 みをじゅうににしゅうして、むみょう、しゅをぬく。ごうしょう、すでにのぞいて、むごんにかをう。」


 一切が因縁からなっていることを体得して、無知のもとをとりのぞく。迷いの世界を除き
 ただひとりで、さとりの世界を得る。


「十二因縁」を観じて「苦」の原因である「無明」の種を除く段階(縁覚)。
業因の種を抜く住心という意味で、よく事物の生起、関連の法則を知り、迷いの元、業の原因、種子を抜く境地。
事物の生起、縁起の法則を知り、迷い、業の種子を抜きはじめる段階。
傾向としては自分自身の悟り(利益)に重点を置いているので小乗仏教と呼ばれる。
縁覚(お釈迦様のように、前世よりの善い行いや、前世の誓いにより、ひとりで努力して修業し悟る方)の境地。
縁覚を独覚、辟支仏とも言う。
全てのことが因縁よりなると悟り、無明を取り除く心。お釈迦様のように、独りで、修行してさとる縁覚の体得する心。
縁覚は智慧が深い方であり、「生けるものの心に煩悩が生じ起こるのは、邪まな思惟(不正思惟)を主な原因(因)
にして生じ、無明 (無知のこと) を間接的な条件(縁)によって生ず。」と悟られている。
そして「一切の苦の原因は煩悩・妄執である。」と観られている。
因縁によって生じ、滅するありさまを十二に整理して観察し、四つの粗大な元素、人間を構成する五つの要素
(色・受・想・行・識)の生滅の真理を知り、生死を厭わしく思う。縁覚(辟支仏)は、因果の関係とはなれた
真実の世界に悠々と住している。


第六住心
他縁大乗心(たえんだいじょうしん)
 「無縁に悲を起して、大悲初めて発る。幻影に心を観じて、唯識、境を遮す。」
 むえんんいひをおこして、たいひはじめておこる。げんえいにこころをかんじて、ゆいしき、きょうをしゃす。


 すべての衆生に愛の心を起こすことによって、大いなる慈悲がはじめて生ずる。すべての
 ものを幻影と観じて、ただこころの働きだけが実在であるとする。


他者を救済するために慈悲の行いを実践する大乗の「菩薩」の段階(法相宗)。
すべての衆生を救うこと〔他縁〕を目的とする大乗仏教の最初の段階。
すべての衆生を救うことを目的とする大乗仏教の最初の段階。
他人の悟り(利益)にも重点を置きだす。この境地にある人を菩薩(ぼさつ)と呼ぶ。
菩薩の境地
他縁とは、縁に囚われず、慈悲の心を全ての人に起こし、他者の救済のためにはたらく心。
菩薩、つまり、ここにいう他縁乗とは、すべての人たちをみな同じく救済しようという大きな誓いをおこして、
生きとし生けるもののために菩薩の道を実践し、不信心の者や声聞・縁覚のうちまだ安らぎの位にはいらない
者をも、心服させて大乗の教えに入らしめる。
菩薩は、幻や陽炎のように、あるように見えて実際には存在しない心のありかたの観察にひたすら意をそそぐ。
菩薩は、心のみが真実であると悟る。心に映ったさまざまな映像は虚妄であると悟る。「唯識」と言う見方をされる。
(この世にはただ認識をすることのできる主体だけが存在するという考え方)
そしてことばも文字も離れた境地に、平穏無事の風をあおぐ。唯一真実の台に両手を組んで敬礼し、真理の世界に
安らぐ菩薩の心の状態。ただ、その修行には無限に長い時間がついやされる。


第七住心
覚心不生心(かくしんふしょうしん)
 「八不に戯を絶ち、一念に空を観れば、心原空寂にして、無相安楽なり。」
 はっぷにけをたち、いちねんにくうをみれば、しんげんくうじゃくにして、むそうあんらくなり。

 あらゆる現象の実在を否定することで、実在からの迷妄を断ち切り、ひたすら空を観じれば
 なんらの相(すがた)なく安楽である。


「空」の論理によって一切の実在を否定する「空観」の段階(三論宗)。
心は何ものによっても生じたのではない。すべての相対的判断を否定し、心の原点に立ち返って空寂の自由の境地
〔中道〕に入ることを目指す。法相宗の心を示す。
心の本性は生じることもなければ、滅びもしないと悟り、また
森羅万象は全て縁によって起こる、即ち空(くう)と観て中道(ちゅうどう)を歩みだす段階。
物質に実体性がない(無我)だけではなく、自分の心に起こることも、実体がなく、本来不生であると悟る。三論宗の境地。
「心に映るものは本来生じたり滅したりせず、心は本来静かに澄みわたっている。」
この時、心主(心の主体)は自由自在になり、物の有る無しに迷うこともなく、自利・利他の行為を心のままに成すことができる。
この絶対の自由の状態を心王という。
それを悟れば、「遂にとうとう、阿字門(万有一切の本源を不生阿字で象徴する部門)にはいったのである」と
大師は説かれる。本来生起しないとは、「不生、不滅、不断、不常、不一、不異、不去、不来」の八つの不の意味である。
寂滅平等の真実の智恵に住して失うことがない。


第八住心
一通無為心(いちどうむいしん)
 「一如本浄にして、境智倶に融す。この心性を知るを、号して遮那という。」
 いちじょほんじょうにして、きょうちともにゆうす。このしんしょうをしるを、ごうしてしゃなという。


 現象はすべて清浄であって、認識としての主観も客観もともに合一している。
 そのような心の本性を知るものを、仏(報身の大日如来)という。


「空・仮・中」の唯一絶対の真理、「空性無境」の「法華一乗」の段階(天台宗)。
万物は真実そのものであり、本来清浄なものである。
この境地に入るとき、従来の教えは一道に帰するはずである。法華、天台の境地。
「一念三千(いちねんさんぜん)」や「十界互具(じゅっかいごぐ)」を説く法華経の世界。
凡ての人に仏性、悟りの可能性を観ることが出来る境地。
「白蓮花のような『法華経』の教えによる精神統一」という瞑想にはいって、人びとが本来もっている徳性は汚れに
染まらないと観想し、全ての人の心が清浄であることを知る。
止と観の観想を行なう。(この止観は、澄みきった水そのものと事物を映し出す水のはたらきとの関係のようなものである)
静かであってよく照らし、照らしていて常に静かである。
この時、心の認識する対象(境)は、悟り(心)であり、悟りの智恵が認識の対象であることを知る。
「自分の心は清らかであり、心は外にもなく、内にもなく、その中間にもない。心は欲の世界のものでもなく
物の世界のものでもなく精神世界のものでもない。」ことがわかる。
「心は眼・耳・鼻・身・意の世界にもなく、見るものでもなく、顕現するものでもない。 
心は虚空と同じであり思慮や思慮のないことを離れたものである。
自分の心そのままが、真実世界の心と同じである。それは、そのまま悟りと同じ。
心と虚空と菩提とは一つのものである。慈悲を根本として、他の者を救う手段(方便)を満足する。
菩提とは、「ありのままにみずからの心を知ることであると悟る。」と弘法大師はこの状態を説明されている。


第九住心
極無自性心(ごくむじしょうしん)
 「水は自性なし、風に遇うてすなわち波たつ。法界は極にあらず、警を蒙って忽ちに進む。」
 みずはじしょうなし、かぜにおうてすなわちなみたつ。ほうかいはきょくにあらず、けいをこうむってたちまちにすすむ。


 水はそれ自体定まった性はない。風にあたって波が立つだけ。
 さとりの世界は、この段階が究極ではないという戒めによって、さらに進むものである。


対立を超え一切万有が連関し合う、重々無尽の「法界縁起」の段階(華厳宗)。
世界には一つとして固定的本性はなく、すべてがそのまま真実そのものであるとみる境地。華厳宗の心の段階。
「法界縁起(ほうかいえんぎ)」や「蓮華蔵世界(れんげぞうせかい)」を説く華厳経の世界。
宇宙のなかの全ては互いに交じり合いながら流動していることを悟る境地。
仏は空の悟り(無為)がまだ究極ではないことをさとす。
華厳経には、海印という精神統一に入り、法の性質が互いに溶け合っていることを悟る。
一人の修業者の心が大なる仏の心に等しいことを知る。「一と多が互いに融合している。」
一人一人の心が、仏と何も変わらず、同一のものであると悟る。一つ一つの心が互いに溶け合っている。
 初めて悟りを求める心を起こした瞬間に悟りの世界にはいる。という華厳三昧の世界である。
しかし、この三昧はまだ完全な悟りではなく、一切如来より「鼻先に月輪を想い、月輪の中にオン字の
観を成さずして成仏を得ることはない。」と知らしめられる。

 

第十住心
秘密荘厳心(ひみつしょうごんしん)
 「顕薬塵を払い、真言、庫を開く。秘宝忽ちに陳じて、万徳すなわち証す。」
 けんやくちりをはらい、しんごん、くらをひらく。ひほうたちまちにちんじて、まんどくすなわちしょうす。

 密教以外の一般仏教は塵を払うだけで、真言密教は倉の扉を開く。そこで倉の中の宝は、
 たちまちに現れて、あらゆる価値が実現されるのである。


宇宙法界の人間的な真実相を示す荘厳の「マンダラ」の段階(真言宗)。
ここに至って万物は真実のあらわれとして、大きな歓びをもって万人の知、情、意に受けとめられる。真言秘密の境地
言語、分別を超えた境地である故に「秘密」と云う。
「大日経(だいにちきょう)」「理趣経(りしゅきょう」を経典とし、言葉、文字を超えた秘密の世界を説く真言密教の世界。
世界、即ち大日如来(だいにちにょらい)と自己が一体化した究極の境地 機根 (信仰心と能力のある) を持つ者を、
法界マンダラに入れしむ。
「全ての人は、貪り、瞋り、痴さを離れ、月輪の観想をすることにより本来の心の姿を見ることができる。
それは清らかで、満月のように虚空に普くして隔てがない。」
修業者の心と、仏、そして生きとし生ける者一つ一つの心が互いに溶け合っている様子を悟る。
身語意の働きを本尊の働きと合一して初めて、この真理の世界にはいることができる。見たり、とかではなく、
三密の合一によって、仏の不思議な力を感じそして、この世界にはいることができる。
「行人慇懃に修習して、よく三密を本尊に同ぜしむれば、この一門より法界に入ることを得る。
即ち、これ普く法界門に入るなり。」加持をもって各々法界の一門より現じて、一つの善知識の身となることを得る。
この時、心が量り知れないことを知り、身体も無量であり、知も無量である。生きとし生けるものも(衆生も)無量であり、
虚空も量り知れない。無量の心識、無量の身を会得する、ここに秘密荘厳心がある。
初めの法門の実行をした者を利益し、如来加持して、大神通力を奮迅示現したまう。一つの平等の身より普く一切の
威儀を現ずる。この威儀は秘密の印でないものはない。一平等の語より普く一切の音声を表わす。かくのごとき音声は
全て真言である。一平等の心から普く一切の本尊(三昧の状態の本尊)を現ず。
しかし、この大日如来の三昧地の法を未潅頂の者に説いてはならない。たとえ、同じ行をしているものにも、
容易く説いてはならないと、戒められている。

http://www.kannon-in.or.jp/ 観音院 参考にさせていただきました。



 ☆では、あなたはどこまで? そこで六波羅蜜という菩薩行

     「波羅蜜」とは、「彼岸」にいたるための実践的方法論。
     「此岸(しがん)は、煩悩に悩み苦しむこと。」「彼岸は、平和で穏やかな状態」

     「布施(ふせ)波羅蜜」、「持戒(じかい)波羅蜜」、「忍辱(にんにく)波羅蜜」、
     「精進(しょうじん)波羅蜜」、「禅定(ぜんじょう)波羅蜜」、「智慧または般若波羅蜜」

     このなかの「布施(ふせ)波羅蜜」と「忍辱(にんにく)波羅蜜」は、上記三学と「精進」とは
     別に、対人・対社会的な実践目標として新たに加わりました。

    一、「布施(ふせ)波羅蜜」
     「無欲でありたい」=「人の喜ぶのをうれしくおもう」

     ☆人のためでなく、自分の喜びとして生きたい。
      人を愛するということは、実は「本当にその人のために、何一つできるものなどない。
      命をあげることも、痛みをとってあげる事もできない。ただ、そうなることを祈るだけ。」
      かもしれない。だから、できることを惜しみなく差し出すこと。それが、布施!

    二、「持戒(じかい)波羅蜜」
     「戒(こころざし)」。「欲」をむさぼらないこと。人の邪魔をせず、また重荷にならないこと。
     釈迦『不害の説法』
      「誰もが自分を可愛いと思っている。しかし、あらゆる人がそう思っていることを深く認識し
       他人が己を可愛がりたい気持ちを、害してはならない。」

     ☆押し付けがましい愛、独善的な愛、独占欲、名誉欲、評価欲。「なんのため」、「誰のため」。

    三、「忍辱(にんにく)波羅蜜」
     『西遊記』・・・孫悟空=「瞋恚」。「天」や「人」を呪い、恨む気持ちはないか?←「忍辱」
              猪八戒=「貪」。 「食欲」、「睡眠欲」、「性欲」。         ←「持戒」
              沙悟浄=「痴」。 「無思慮」、「無判別」、「無知」。        ←「精進」

     ☆責任を他に転嫁しない生き様。

    四、「精進(しょうじん)波羅蜜」
     「路」でなく「道」を進もう。
       「路」は、行き止まる小さな道。「道」とは、終わりのない大きな道。
 
     ☆終わりなき終点を目指す生き方。「努力そのものを楽しむこと。」
      『坐れば坐っただけの仏』道元禅師

      
「初発心のとき、すなわち正覚(しょうがく)を成す。」
      (初めて悟りを求める心を起こしたとき、たちまち正しい悟りを成就する。」(『華厳経』)


    五、「禅定(ぜんじょう)波羅蜜」
      苦悩を解決するのは、なにより意識の変容を促すこと。
      そのために、ある種の精神集中状態になること。「禅」、「読経」、「瞑想」。

      五智・・・第五識=「マナ識」無意識の自己執着
            第六識=「アーラヤ識」生まれる前から持っている習慣的行為や体験・思考が
                  DNAによって持っている。「含蔵識」

                  「地獄」や「餓鬼」「畜生」は、「アーラヤ識」に潜む自己の姿。自己愛。

      そんな誰もが持っている「マナ識」、「アーラヤ識」を越えて、「空」になることが、
      「空」の認識こそが、「智慧」を生む土壌である。だからこそ人はすべて「仏」である。

      「自分の中に潜むあらゆる可能性を意識化する作業が瞑想であり、そうして次々に意識化
      され、おとなしくなった自己の奥底に、霧が晴れ水面が見えてくるように現れるのが「清浄心」
      になりおおせたアーラヤ識。
      
    六、「智慧または般若波羅蜜」
      「空」とは、固定的実体を否定する概念。
      物理学的にも心理学的にも、目前に存在する実体は、すべて永遠不滅でも永久不変でもない。

      正のエントロピーの法則にしたがって、集束したものは必ず拡散する。
      人の意識も、例外ではない。

      五智・・・「大円鏡智」=私たちの心に残る残像は、「執着の雲」に覆われている。
            鏡は、映るときだけをあるがままに映す。いつでもあらゆるものが、ありのまま映る。
           「法界体性智」=宇宙の調和が、心の中で体現される。

      ☆本来持って生まれたはずの「智慧」が、暮らしや意識の固執によって、重くなったり
        汚れて、曇っていく。それを目指して磨かなくては。そうして、いつの日か、意識しないで
        「空」になることを信じて。