空海の教え  秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)   未完成

 弘法大師の著書から、その教えを学ぼうと思います。すこしづつ、噛み砕いていきたいですね。
 『十住心論』とは、正確には『秘密曼荼羅十住心論』、その要約の略本が『秘蔵宝鑰』です。
 この十住心論は大師が晩年にお書きになった十巻からなる大作で、大師の生涯における
 真言密教の教学の集大成とされているものです。
 (赤文字が本文です。なお、意訳等は、ちくま学芸文庫『空海コレクション1』を参照しました。)

秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく) 序
  
      沙門遍照金剛撰(しゃもんへんじょうこんごうせん)  

 悠々たり悠々たり太だ悠々たり
  ゆうゆうたりゆうゆうたりはなはだゆうゆうたり

 内外の謙? 千万の軸あり
  ないげのけんしょう せんまんのじくあり

 杳々たり杳々たり 甚だ杳々たり
  ようようたりようようたり はなはだようようたり

 道をいい道をいうに百種の道あり
  みちをいいみちをいうにひゃくしゅのみちあり

 書死え諷死えなましかば本何がなさん
  しょたえふうたえなましかばもといかんがなさん

 
 知らじ知らじ吾も知らじ
  しらじしらじわれもしらじ

 ・・・・・・(欠文)・・・

 思い思い思い思うとも聖も心ることなけん
  おもいおもいおもいおもうともしょうもしることなけん

 牛頭草を嘗めて病者を悲しみ
  ぎゅうとうくさをなめてびょうしゃをかなしみ

 断?車を機って迷方を愍む
  だんしくるまをあやつってめいほうをあわれむ

 三界の狂人は狂せることを知らず
  さんがいのきょうじんはきょうせることをしらず

 
 四生の盲者は盲なることを識らず
  ししょうのもうじゃはもうなることをさとらず

 生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く
  うまれうまれうまれうまれてしょうのはじめにくらく

 死に死に死に死んで死の終りに冥し
  しにしにしにしんでしのおわりにくらし
 迷いの世界を理解せず、生死輪廻を繰り返している 私達のすがたに、大師は(仏は)いかに向かい合うの でしょうか。


 仏典やそれ以外の限りない書物もある


 さまざまな道を説くものも、無数にある


 限りなく、永劫に、深く、広くある


 それらを書くことも無く、暗記することもなければ
  教えの根本をどうして伝えられようか


 そうしなければ、誰も教えを知る者もなく
  私もしらないだろう


 どんなに教えを考えても、考えぬいても聖者もそれを知ることができない


 古代の中国の神は、草をなめて薬をつくった


 偉大な王は、道のわからぬものに指南車をつかって方角を教えた


 迷いの世界に狂える人は、その狂っていることを知らない

 真実を見抜けない生きとし生けるものは、自分が何も見えていない者であることがわからない


 わたしたちは生まれ生まれ生まれ生まれて、生のはじめがわからない


  死に死に死に死んで、死のおわりをしらない

 空華、眼を眩かし、亀毛、情を迷わして、実我に謬著し、
 
くうげ、まなこをたかぶらかし、きもう、こころをまどわして
   じつがにびゅうじゃくし、


 酔心、封執す、渇鹿野馬、塵郷に奔り、狂象跳?、
 すいしん、ふうしゅうす、かつろくやば、じんきょうにはしり、
  
きょうぞうちょうえん、
 
 識都に蕩るが如くに至っては、ついんじて十悪、心に
 
 しきとにとらかるがごとくにいたっては、ついんじて
   じゅうあく、こころに


 快うして日夜に作り、六度、耳に逆ろうて心にいれず。
  こころようしてにちやにつくり、ろくど、みみにさかろうて
   こころにいれず。

 人を謗じ法を謗じて焼種の辜を顧みず。酒に耽り色に
  ひとをぼうじほうをぼうじてやくしゅのつみをかえりみず。
   さけにふけりいろに

 耽って誰か後身の報をさとらん。
  ふけってだれかこうしんのむくいをさとらん。

 閻魔獄卒は獄を構えて罪を断り、餓鬼禽獣は口を
  えんまごくそつはかまえてつみをことわり、
   がききんじゅうはくちを

 焔して体に挂く。三界に輪廻し、四生に? ?す。
  えんしてからだにかく。さんがいにりんねし、
   ししょうにりょうひょうす。

 大覚の慈父、これを観て何ぞ黙したまわん。この故に、
  だいかくのじふ、これをみてなんぞもだしたまわん。
   このゆえに、

 種種の薬を設けて種種の迷いを指す。意、これに在るか。
  しゅじゅのくすりをもうけてしゅじゅのまよいをさす。
   こころ、これにあるか。

 ここに三綱五常を修すればすなわち君臣父子の道、
  ここにさんこうごじょうをしゅうすればすなわちくんしん
   ふしのみち、じょあってみだれず。


 序あって乱れず。六行四禅を習えばすなわち
  じょあってみだれず。ろくぎょうしぜんをならえばすなわち


 厭下欣上の観、勝進して楽を得。
  えんげごんじょうのかん、しょうしんしてらくをう。


眼を病んでいる人が、空中に花をみたり、亀の苔を尻尾とみあやまったりするように、人は自分の体を本当の自我であると思い込み、


それにとらわれて、のどの渇いた鹿や馬が陽炎を水と思いあやまるように、象がたけり猿が飛び回るように、体のままにまかせている。


日夜にもろもろの悪事をよいことにして、善いことはかえりみない。


人をそしり教えをそしって、それがめざめたものとなる可能性を焼きほろぼすことになるのを考えない。


いたずらに酒や色欲のばかり夢中になり、


あとでどんな報いを受けるかを知らない。


閻魔大王と部下は、牢獄をつくって断罪する。



餓鬼の世界に落ちたものは、口から炎を吐き、畜生道に行ったものは、重石をつけて苦しむ。



迷いの世界において生死を繰り返し、生きとし生けるものの世界にさまよう。



慈悲深い父のように偉大な覚者はこれを見て、どうして黙っておれようか。


だから、いろいろな教えをもうけて、さまざまな迷いを指摘されるのも、その本心はここにあるのである。


そこで、儒教の人倫の道、個人道徳をおさめれば、君主と臣下、父子の道はととのって乱れない。


六行・四禅という瞑想を実行すれば、人間界を厭い、天上界をよろこぶところの観念がますます発達して、心の安らぎをえられる。
 
唯蘊に我を遮すれば、八解六通あり。
  
ゆいうんにがをしゃすれば、はちげろくつうあり。

 因縁に身を修すれば、空智、種を抜く。
  
いんねんにみをしゅうすれば、くうち、しゅをぬく。

 無縁に悲を起し、唯識、境を遣ればすなわち
  
ぬえんにひをおこし、ゆいしき、きょうをやればすなわち

 二障伏断し、四智転得す。

  にしょうふくだんし、しちてんどくす。

 不生に心をさとり、独空慮絶すればすなわち
  
ふしょうにこころをさとり、どくくうりょぜつすればすなわち

 一心寂静にして不二無相なり。
  
いっしんじゃくじょうにしてふにむそうなり。

 一道を本浄に観ずれば、観音、熙怡し、
  
いちどうをほんじょうにかんずれば、かんのん、きいし、

 法界を初心に念えば、普賢、微咲したもう。
  ほうかいをしょしんにおもえば、ふげん、みしょうしたもう。

 心外の礦垢、ここにことごとく尽き、
  
しんげのこうく、ここにことごとくつき、

 曼荼の荘厳、この時、漸く開く。
  
まんだのしょうごん、このとき、ようやくきく。

 マタの恵眼は無明の昏夜を破し、
  
またのえげんはむみょうのこんやをはし、

 日月の定光、有智の薩たを現ず。
  
にちげつのじょうこう、うちのさったをげんず。

 五部の諸仏は智印をフげて森羅たり。
  
ごぶのしょぶつはちいんをひっさげてしんらたり。

 四種の曼荼は法体に住して駢填たり。
  
よんしゅのまんだはほったいにじゅうしてへんてんたり。

 阿遮一睨すれば業寿の風定まり、
  
あしゃ、いちげいすればごうじゅのかぜしずまり、

 多隷三喝すれば、無明の波涸れぬ。
  
たれいさんかつすれば、むみょうのなみかれぬ。

 八供の天女は雲海を妙供に越し、
  
はっくのてんにょはうんかいをみょうくにおこし、

 四波の定妃は適悦を法楽に受く。
  しはのじょうきはちゃくえつをほうらくにうく。

 十地も窺?すること能わず。
  
じゅうちもきゆすることあたわず。

 三自も歯接することを得ず。
  
さんじもししょうすることをえず。

 秘中の秘、覚中の覚なり。
  
ひちゅうのひ、かくちゅうのかくなり。

 吁吁、自宝を知らず、狂迷を覚といえり。
  
ああ、じほうをしらず、きょうめいをかくといえり。

 愚にあらずして何ぞ。考慈、心に切なり。
  
ぐにあらずしてなんぞ。こうじ、こころにせつなり。

 教えにあらずんば何ぞ済わん。
  
おしえにあらずんばなんぞすくわん。

 薬を投ずることこれに在り。
  
くすりをとうずることこれにあり。

 服せずんば何ぞ療せん。
  
ふくせずんばなんぞりょうせん。

 徒に論じ徒に誦すれば、
  
いたずらにろんじいたずらにじゅすれば、

 医王、呵叱したまわん。
  
いおう、かしつしたまわん。

 爾ればすなわち九種の心薬は
  
しかればすなわちきゅうしゅのしんやくは

 外塵を払って迷いを遮し
  
げじんをはらってまよいをしゃし

 金剛の一宮は内庫を排いて宝を授く。
  
こんごうのいちぐうはないじんをひらいてたからをさずく。

 楽と不楽と得と不得と自心能くなす。
  
らくとふらくととくとふとくとじしんよくなす。

 哥にあらず社にあらず、
  
かにあらずしゃにあらず、

 我心、自ら証すのみ。
  
がしん、みずからしょうすのみ。

 求仏の薩た、知らずんばあるべからず。
  
ぐぶつのさった、しらずんばあるべからず。

 摩尼と燕石と驢乳牛醐と
  
まにとえんじゃくとろにゅうごごと

 察せずばあるべからず。
  
さっせずばあるべからず。

 住心の深浅、経論に明らかに説けり。
  
じゅうしんのしんせん、きょうろんにあきらかにとけり。

 具に列ぬること後の如し。
  つぶさにつらぬることのちのごとし。

唯識によって実体的な自我を否定すれば、八種の瞑想力を観想して、六つの不可思議な能力がえられる。

十二の因果関係を体得すれば、実体的な自我は存在しないとする智慧によって、根源的な無知のもつ可能力を除くことができる。

絶対の慈愛の心をもって、万有はただ識のみとしてあらゆる認識の対象の実存を否定すれば、煩悩と所知との二つの障害を断ち、迷える者の心を仏の智慧にかえることができる。

心の絶対の本性をさとり、唯一の空無を知って思慮分別を絶つならば、心はしずまって絶対で現象を離れたものとなる。

(天台の)一道を本来きよらかなものと観想するならば、観自在菩薩はなごやかによろこばれるし、

心理をもとめる心を起こしたとたんにさとりの世界を思念すれば、普賢菩薩は、ほほえまれるにちがいない。

ここにおいて、心の外のけがれはすべて消え、

荘厳な曼荼羅世界はようやく開示される。

真言の実践者が、右目に「マ」字を、左目に「タ」字を観想す
るとき、その智慧の眼は根源的無知の闇黒をやぶり、

日月にたとうべき瞑想の光によって、真実智を持った金剛さったが出現する。

五つの部門の仏たちは、さとりの智慧を象徴する印相を結んでならびつらなり、

四種の曼荼羅は万有本体としていっぱいに存在している。

不動明王がひとにらみすれば、過去世によって決まった輪廻の寿命もなくなり、

降三世明王が吽字を三回唱えれば、根源的な無知の波はなくなる。

曼荼羅の八供養菩薩は雲の海のように限りない供養をささげ

四波羅蜜菩薩は心理の教えの楽しみを享受する。


このようなさとりの世界は、十地の菩薩もうかがいしることができない。

また三自一心大乗法を知る者もならび接することができない。

これは、最高の秘密であり、最高のさとりである。

ところが、迷える者はこの自らの宝を発見できないし、
狂い迷っているにもかかわらず、それをさとりだと思っている。

これを愚かといわずして何であろう。慈悲深い仏は、こうした迷える者たちを救おうとする切なる心をもっている。

だから、仏の教えによらなければ、どうして生きとし生けるものを救済することができようか。

教えの薬を投ずるのも、このゆえである。

それを服用しなければ、どうして迷いをいやすことができようか。

しかし、いたずらに仏の教えの深い浅いを論議し、いたずらに経典を読誦すれば、

かえって医師の王ともいうべき仏のお叱りを受けるだろう。

そこで九種類の心の薬は

心のけがれを除いて迷いをなくし、

金剛不壊の真実理法の宮殿にもたとうべきさとりの教えはその内なる庫を開示して、宝を与える。


しかし、その宝を得て楽しむか、得ずして楽しまないかは、自らの心がなすところである。

父や母がなすものではなく、わが心が自らさとるだけである。

仏を求める者は、この理(ことわり)を知らなければならない。

宝珠とまがいもの、ろばの乳と牛の最上のバターとの区別をよく知らなければならない。

深い心の世界、浅い心の世界のことは経典・論書に明らかに説いている。

くわしく、それを列挙すれば、後で述べるとおりである。

 頌にいわく、
  じゅにいわく

  金剛内外の寿と
   こんごうないげのじゅと

  離言垢過等空の因と
   りごんくかとうくうのいんと

  作遷慢如真乗の寂と
   させんまんにょしんじょうのじゃくと

  制体?光蓮貝の仁と
   せいたいきこうれんばいのじんと

  日幢華眼鼓の勃駄と
   にちどうけげんこのぼつだと

  金宝法業歌舞の人と
   こんぽうほうごうかぶのにんと

  捏鑄刻業威儀等との
   ねつじゅこくごういぎとうとの

  丈夫無碍にして刹塵に過ぎたまえるを
   じょうぶむげにしてせつじんにすぎたまえるを

  帰命したてまつる
   きみょうしたてまつる


  我、今、詔を蒙って十住を撰す
   われ、いま、みことのりをこむってじゅうじゅうをせんす

  頓に三妄を越えて心真に入らしめん
   とみにさんもうをこえてしんしんにいらしめん

  霧を?げて光を見るに無尽の宝あり
   きりをかかげてひかりをみるにむじんのたからあり

  自他受用日に弥、新たなり
   じたじゅゆうひにいよいよ、あらたなり


  ?祖して伽梵を求む
   ばっそしてがぼんをもとむ

  幾郵してか本床に到る
   いくうまやしてかほんしょうにいたる

  如来明らかにこれを説きたまえり
   にょらいあきらかにこれをときたまえり

  十種にして金場に入る
   じゅっしゅにしてこんじょうにいる

  已に住心の数を聴きつ
   すでにじゅうしんのしゅをききつ

  請う彼の名相を開け
   こうかのみょうそうをひらけ

  心の名は後に明らかに列ぬ
   しんのなはこちにあきらかにつらぬ

  諷読して迷方を悟れ
   ふどくしてめいほうをさとれ
詩にいう。

 生けるもの・非情のすべての永遠の生命を示す阿(あ)字と 言葉を離れたものを示す縛(ば)字とけがれなきものを示す 羅(ら)字と

 業を遠離したものを示す化訶(か)字と虚空にひとしいものを 示す?(きゃ)字の五字とその五つの意義とをもって表徴す る絶対の仏・大日如来に敬礼する。

 はたらきを示す迦(きゃ)字と遷流(せんる)を示す左(さ)字 とおごりたかぶることを示す?(たく)とさとりを示す多(た)と

 最高真理を示す波(は)字と教えを示す也(や)字とをもって

 大日如来と宝幢仏の幢(はた)と開敷華王仏の宝珠の光と 無量寿仏の蓮華と天鼓雷音仏の法螺貝とをもって表徴さ れる三昧耶曼荼羅の仏に敬礼する。

 胎蔵法曼荼羅の大日・宝幢・開敷華王・無量寿・天鼓雷音 の五仏、金剛界曼荼羅における金・宝・法・業の四波羅蜜 菩薩、嬉・鬘・歌・舞の八供四摂をもって表徴する大曼荼羅 の仏に敬礼する。

 乾漆・鋳造・木彫で仏の像容を示した羯磨曼荼羅と、

 すべての絶対自由をえた数限りない仏に敬礼する。


 わたしは、いま、淳和帝のご命令を受けて、「十住心」に ついて書いた。

 すみやかに、あらゆる迷いを克服して真実の心の世界に人々をして入らしめたい。

 迷いの霧を除いて日の光を見ると、そこには無尽の宝がある。

 自分も他のものも共にこれを用いて、日々に新しく、尽きることがない。

 心を発(おこ)して仏を求めようとするが

 本来のさとりの世界に達するのはどれだけ経ってのことだろうか。

 如来はこのことを明らかにお説きになられた。
 
 心の世界を十種に分け、その階梯を経て永遠のさとりの 世界に入ることができる。

 すでに住心の数は聞くことができた。

 願わくはその名称と内容について開示されたい。

 心の名称はすぐあとで明らかに列挙する

 これをよく読んで、行方の迷いをさとってほしい。
第一住心
異生羝羊心 (いしょうていようしん)

 「凡夫狂酔して、吾が非を悟らず。但し淫食を念ずること、彼の羝羊の如し。」
  
ぼんぷきょうすいして、わがひをさとらず。ただし、いんじきをねんずること、かのていようのごとし。」

第二住心
愚童持斎心 (ぐどうじさいしん)
 「外の因縁に由って、忽ちに節食を思う。施心萌動して、穀の縁に遇うが如し。」
 
ほかのいんねんによって、たちまちにせつじきをおもう。せしんほうどうして、こくのえんにあうがごとし。」

第三住心
嬰童無畏心(ようどうむいしん)
 「外道天に生じて、暫く蘇息を得。彼の嬰児と、犢子との母に随うが如し。」
 げどうてんにしょうじて、しばらくそそくをう。かのえいじと、とくしとのははにしたがうがごとし。」


第四住心
唯蘊無我心(ゆいうんむがしん)
 「ただ法有を解して、我人みな遮す。羊車の三蔵、ことごとくこの句に摂す。」
 
ただほうゆうをげして、われひとみなしゃす。ようしゃのさんぞう、ことごとくこのくにせっす。

第五住心
抜業因種心(ばつごういんしゅしん)
 「身を十二に修して、無明、種を抜く。業生、已に除いて、無言に果を得。」
 みをじゅうににしゅうして、むみょう、しゅをぬく。ごうしょう、すでにのぞいて、むごんにかをう。」


第六住心
他縁大乗心(たえんだいじょうしん)
 「無縁に悲を起して、大悲初めて発る。幻影に心を観じて、唯識、境を遮す。」
 むえんんいひをおこして、たいひはじめておこる。げんえいにこころをかんじて、ゆいしき、きょうをしゃす。


第七住心
覚心不生心(かくしんふしょうしん)
 「八不に戯を絶ち、一念に空を観れば、心原空寂にして、無相安楽なり。」
 はっぷにけをたち、いちねんにくうをみれば、しんげんくうじゃくにして、むそうあんらくなり。

第八住心
一通無為心(いちどうむいしん)
 「一如本浄にして、境智倶に融す。この心性を知るを、号して遮那という。」
 いちじょほんじょうにして、きょうちともにゆうす。このしんしょうをしるを、ごうしてしゃなという。


第九住心
極無自性心(ごくむじしょうしん)
 「水は自性なし、風に遇うてすなわち波たつ。法界は極にあらず、警を蒙って忽ちに進む。」
 みずはじしょうなし、かぜにおうてすなわちなみたつ。ほうかいはきょくにあらず、けいをこうむってたちまちにすすむ。

第十住心
秘密荘厳心(ひみつしょうごんしん)
 「顕薬塵を払い、真言、庫を開く。秘宝忽ちに陳じて、万徳すなわち証す。」
 けんやくちりをはらい、しんごん、くらをひらく。ひほうたちまちにちんじて、まんどくすなわちしょうす。

第一住心
異生羝羊心 (いしょうていようしん)
  無知なものは迷って、自分の迷いを悟っていない。雄羊ように、ただ性と食を思い続けるだけ。


第二住心
愚童持斎心 (ぐどうじさいしん)
 他の縁によって、すぐさま控えようとおもう。他の者に与える心が芽生えるのは、穀物が発芽するのと同じ。


第三住心
嬰童無畏心(ようどうむいしん)
 天上の世界に生まれ、しばらく復活できる。まるで幼児や子牛が母に従うように一時の安らぎにすぎない。


第四住心
唯蘊無我心(ゆいうんむがしん)
 ただ物のみが実在することを知って、個体存在の実在を否定する。教えを聞いて悟る者の説はみんなこのようなものだ。


第五住心
抜業因種心(ばつごういんしゅしん)
 一切が因縁からなっていることを体得して、無知のもとをとりのぞく。迷いの世界を除きただひとりで、さとりの世界を得る。


第六住心
他縁大乗心(たえんだいじょうしん)
 すべての衆生に愛の心を起こすことによって、大いなる慈悲がはじめて生ずる。すべてのものを幻影と観じて、ただこころの働きだけが実在であるとする。


第七住心
覚心不生心(かくしんふしょうしん)
 あらゆる現象の実在を否定することで、実在からの迷妄を断ち切り、ひたすら空を観じればなんらの相(すがた)なく安楽である。


第八住心
一通無為心(いちどうむいしん)
 現象はすべて清浄であって、認識としての主観も客観もともに合一している。そのような心の本性を知るものを、仏(報身の大日如来)という。


第九住心
極無自性心(ごくむじしょうしん)
 水はそれ自体定まった性はない。風にあたって波が立つだけ。さとりの世界は、この段階が究極ではないという戒めによって、さらに進むものである。


第十住心
秘密荘厳心(ひみつしょうごんしん)
 密教以外の一般仏教は塵を払うだけで、真言密教は倉の扉を開く。そこで倉の中の宝は、たちまちに現れて、あらゆる価値が実現されるのである。

この後、各論。第一から第八まで続く。 余裕がでたら、少しずつUPしますね。
第九極無自性心
 ごくむじしょうしん

 極無自性心というは、今、この心を釈するに二種の趣あり。
 ごくむじしょうしんというは、いま、このこころをしゃくするににしゅのおもむきあり。

一には、顕略趣、二には秘密趣なり。
いちには、けんりゃくしゅ、ににはひみつしゅなり。

 顕略趣とは、それ、甚深なるはまろ、峻高なるは蘇迷、
 けんりゃくしゅとは、それ、じんじんなるはまら、しゅんこうなるはそめい、

広大なるは虚空、久遠なるは芥石、然りといえども芥石も
こうだいなるはこくう、くおんなるはけしゃく、しかりといえどもけしゃくも

つきひすらぎ、虚空も量りつべし。
つきひすらぎ、こくうもはかりつべし。

蘇迷は十六万、まろは八億那なり。
そめいはじゅうろくまん(ゆじゅん)、まろははちおく

 近くして見難きは我が心、細にして空に遍きは我が仏なり。
 ちかくしてみがたきはわがこころ、さいにしてくうにあまねきはわがほとけなり。

我が仏、思議し難し。我が心広にしてまた大なり。
わがほとけ、しぎしがたし。わがこころこうにしてまただいなり。

巧芸、心迷ってさおを擲ち、離律、眼盲くして見ることを休む。
きょうげい、こころみょってさおをなげうち、りりつ、めくろくしてみることをやむ。

うが名、舌断え、かが歩み、足きる。
うがな、したたえ、かがあゆみ、あしきる。

声縁の識も識らず、薩たの智も知らず。
しょうえんのしきもさとらず、さったのちもしらず。

奇哉の奇、絶中の絶なるは、それ只自心の仏か。
きさいのき、ぜつちゅうのぜつなるは、それただじしんのほとけか。

自心の迷うが故に六道の波、鼓動し、心原を悟るが故に、
じしんのまようがゆえにりくどうのなみ、くどうし、しんげんをさとるがゆえに、
一大の水、澄静なり。澄静の水、影、万象を落し、
いちだいのみず、ちょうじょうなり。ちょうじょうのみず、かげ、ばんしょうをうつし、

一心の仏、諸法をかん知す。

いっしんのほとけ、しょほうをかんちす。

衆生、この理に迷って、輪転、絶ゆること能わず。
しゅじょう、このりにまよって、りんてん、たゆることあたわず。

蒼生、太だ狂酔して、自心をさとること能わず。
そうせい、はなはだきょうすいして、じしんをさとることあたわず。

大覚の慈父、その帰路を指したもう。
だいかくにじふ、そのきろをさしたもう。

帰路は五百由旬、この心はすなわち都亭なり。
きろはごひゃくゆじゅん、このこころはすなわちとていなり。

都亭、常の舎にあらず。縁に随って忽ちに遷移す。
とてい、つねのしゃにあらず。えんにしたがってたちまちにせんいす。

遷移、定まれる処なし。この故に自性なし。
せんい、さだまれるところなし。このゆえにじしょうなし。

諸法、自性なきが故に、卑を去け尊を取る。

しょほう、じしょうなきがゆえに、ひをさけそんをとる。

故に真如受くんの極唱、勝義無性の秘告あり。
かるがゆえにしんにょじゅくんのきょくしょう、しょうぎむしょうのひみつあり。

一道を弾指に驚かし、無為を未極にさとす。
いちどうをだんしにおどろかし、むいをみごくにさとす。

等空の心、ここに於て始めて起こり、
とうくうのこころ、ここにおいてはじめておこり、

寂滅の果、果還って因となる。
じゃくめつのか、かかえっていんとなる。

この因、この心、前の顕教に望むれば極果なり。
このいん、このこころ、まえのけんぎょうにのぞむればきょくかなり。

後の秘心に於ては初心なり。
のちのひしんにおいてはしょしんなり。

初発心の時にすなわち正覚を成ずること、宜しくそれ然るべし。
しょほっしんのときにすなわちしょうかくをしょうずること、よろしくそれしかるべし。

初心の仏、その徳、不思議なり。
しょしんのほとけ、そのとく、ふしぎなり。

万徳、始めて顕われ、一心、やや現ず。
まんどく、はじめてあらわれ、いっしん、ややげんず。

この心を証する時、三種世間はすなわち我が身なりと知れり。
このこころをしょうするとき、さんしゅせけんはすなわちわがみなりとしれり。

十箇の量等はまた我が心なりと覚る。
じゅっこのりょうとうはまたわがこころなりとさとる。

ル遮那仏、始めて成道の時、第二七日に
るしゃなぶつ、はじめてじょうどうのとき、だいにしちにちに

普賢等の諸大菩薩等と広くこの義を談じたまえり。
ふげんとうのしょだいぼさつらとひろくこのぎをだんじたまえり。

これすなわちいわゆる『華厳経』なり。
これすなわちいわゆる『けごんきょう』なり。

爾ればすなわち華蔵を苞ねてもって家となし、
しかればすなわちけぞうをかねてもっていえとなし、

法界を籠めて国とす。
ほうかいをこめてくにとす。

七処に座を荘り、八会に経を開く。
しちしょにざをかざり、はちえにきょうをひらく。

この海印定に入って法性の円融を観じ、
このかいいんじょうにいってほっしょうのえんゆうをかんじ、

彼の山王の機を照らして心仏の不異を示す。
かのせんのうのきをてらしてしんぶつのふいをしめす。

九世を刹那に摂し、一念を多劫に舒ぶ。
きゅうせをせつなにせっし、いちねんをたごうにのぶ。

一多相入し、理事相通す。
いったそうにゅうし、りじあいとおす。

帝網をその重重に譬え、
たいもうをそのちょうじょうにたとえ、

錠光をその隠隠に喩う。
じょこうをそのおんおんにたとう。

ついんじて覚母に就いてもって発心し、
ついんじてかくもについてもってほっしんし、

普賢に帰して証果す。
ふげんにきしてしょうかす。

三生に練行し、百城に友を訪う。
さんしょうにれんぎょうし、ひゃくじょうにともをとう。

一行に一切を行じ、一断に一切を断ず。
いちぎょうにいっさいをぎょうじ、いちだんにいっさいをだんず。

初心に覚を成じ、十信に道円なりというといえども、
しょしんにかくをじょうじ、じゅうしんにみちまどかなりというといえども

因果、異ならず。
いんが、ことならず。

五位を経て車を馳せ、相性、殊ならずして
ごいをへてくるまをはせ、あいしょう、ことならずして

十身を渾げて同帰す。
じゅうしんをひろげてどうきす。

これすなわち華厳三昧の大意なり。
これすなわちけごんざんまいのたいいなり。

故に大日如来、秘密王に告げてのたまわく、
かるがゆえにだいにちにょらい、ひみつおうにつげてのたまわく、

「いわゆる空性は根境を離れて相もなく境界もなし。
「いわゆるくうしょうはこんきょうをはなれてそうもなくきょうかいもなし。

もろもろの戯論を越えて、虚空に等同なり。
もろもろのけろんをこえて、こくうにとうどうなり。

有為無為界を離れ、もろもろの造作を離れて、
ういむいかいをはなれ、もろもろのぞうさをはなれて、

眼耳鼻舌身意を離れて、極無自性心を生ず。」と。
げんにびぜっしんにをはなれて、ごくむじしょうしんをしょうず。」と。

善無畏三蔵の説かく、「この極無自性心の一句に
ぜんむいさんぞうのとかく、「このごくむじしょうしんのいっくに

ことごとく華厳教を摂し尽くす」と。
ことごとくけごんきょうをせっしつくす」と。

所以何となれば、『華厳』の大意は始めを原ね、
ゆえいかんとなれば、『けごん』のたいいははじめをたずね、

終わりを要むるに、真如法界不守自性隋縁の義を明かす。
おわりをもとむるに、しんにょほうかいふしゅじしょうずいえんのぎをあかす。

杜順和上、この法門に依って、『五教』『華厳三昧法界観』等を造り、
とじゅんかじょう、このほうもんによって、『ごきょう』『けごんざんまいほうかいかん』とうを

弟子の智ごん、相続し、智ごんの弟子法蔵法師、また、
でしのちごん、そうぞくし、ちごんのでしほうぞうほうし、また、

五教を広し、『旨帰』『綱目』及び『疏』を作れり。
ほきょうをこうし、『しき』『こうもく』および『しょ』をつくれり。

すなわちこれ華厳宗の法門、一一の義章なり。
すなわちこれけごんしゅうのほうもん、いちいちのぎしょうなり。
   


極無自性心というのは、今、この心を注釈するのに二種の旨がある。


一つには、顕略のむね、二つには秘密のむねである。

顕略のむねとは、次のとおりである。そもそも大海は甚だ深く、須弥山は嶮しく高い。


虚空は広大であり、芥子劫・盤石劫は永久である。だが、、芥子劫は


なくなり、盤石劫はすりへらされ、虚空も量ることができなくない。


須弥山は十六万由旬の高さ、大海は八億ゆぜんなの深さである。


 ところが、あまり近いためにかえって見にくいものはわが心であり、微細で空にあまねきほど広大なのはわが仏である。


わが仏の存在はおもんぱかることができない。わが心は広くして大である。


暦学者の巧暦や数学者の衆芸でも、とどまってこれを量ることができない。目利きの離朱や不可思議などう視力をもつ阿那律でも、盲いてみることができない。


名付けの名人の夏のう王さえ名がつけられなず、健脚のか父も歩みかねる。


声聞や縁覚も、菩薩も知ることができない。

不思議中の不思議、優れた中にもすぐれたものは、ただ自らの心の仏であることよ。


自らの心に迷うから、あらゆる迷いの世界の波は揺れ動き、心の本源をさとるから、


唯一の広大な水は、澄んで静まる。澄み静まった水が万象の影を映すように、


一心の仏はあらゆるものをよく知りたまう。

人々はこのわけに迷って、迷いの世界をいつまでもめぐっている。


人々は非常に混迷して、自らの心をさとることができない。

慈しみある父のような大覚者(ほとけ)は、その帰るべき自らの心を示された。


帰り道は五百由旬を経過して、この第九住心は仮の休息所である。


休息所は、常恒の住まいではない。条件にしたがって、たちまち移り変わる。


移り変わって一定のところがない。だから、それ自体の性がない。


もろもろのものは、それ自体の性がないから、よくないものを去り、尊いものをとる。


だから、真実一如もそれ自体の性がなくて、無知の薫習をうけて現象するという至極の説、第一義の心もそれ自体の性がないというひそかなる告知がある。


この唯一の道はまだ真実の悟りでないことを仏に知らされ、またほとけは無為がまだ究極でないことをさとす。


虚空に等しい広大無辺な心がここに始めて起こり、

この第九住心でえられたさとりの果は、かえって因となる。

もちろん、この因とこの心とは第八住心までの住心に対すれば、さとりの極みである。


だが、次の第十秘密荘厳心に較べたら、初心にすぎない。

『華厳経』に「初めて心を起こすときに、直ちにさとりを完成する」と説いているのは、まさしくそのとおりである。


初心の仏の徳は不可思議である。

あらゆる徳が初めてそこに顕在して、第十住心の一心が少しばかり現れる。


この心を証すとき、三種世間はそのままわが身であると知る。


あらゆるものと等量の法身はわが心であるとさとる。

毘ル遮那仏がはじめてさとられたとき、十四日間に

普賢菩薩などもろもろの大菩薩たちと広く、このむねを話された。

それがすなわち、『華厳経』である。

そのようなわけで、蓮華蔵世界をつつんで住み家とし、

真理の世界をひっくるめて国土とする。

七ヶ所に説法の座を飾り、八つの集いにおいて、『華厳経』を開き説かれた。

仏はこの海印という精神統一に入って法の本性が完全に融合しているのを観想し、

かの山の王のような偉大な資質をもった者を明らかにして、一心と仏とが異ならぬことを示す。

一瞬にして過去・未来・現在のあらゆる時間をおさめ、限りなく多くの劫に一年をのべひろげる。

一と多とがわたりあい、理と事とがお互いに通じ合う。

それは帝釈天の網目にある多くの珠にお互いが盛んに映じあうのにたとえられ、


善財童子は文殊菩薩についてさとりを求める心を起こし、

ついに普賢菩薩に帰依してさとりをえた。

善財が三生において修行をかさね、百の都城に立派な指導者を訪れた。


一つの実践においてすべてを実践し、ひとたび煩悩を断つことによってあらゆる煩悩を断つ。


初心においてさとりを完成し、十信の境位において道を円満にするというが、


因と果とは別ののものではない。

五位をへて華厳一乗の車を走らせ、現象と実在とは違ったものではないから、


十身の仏をひとまとめにして毘ル遮那仏に帰一する。

これが華厳の精神統一の大意である。

だから、大日如来が秘密主に告げていうのに、

「いわゆる空性は感官と対象とを離れて、かたちも境界もない。
   
  
もろもろの無益な論議を越えて虚空に等しい。

迷いの世界とさとりの世界とを離れ、もろもろの造作を離れ、

眼・耳・鼻・舌・身・意の感官を離れて、極無自性心を生ずる」と。

善無畏三蔵は、こう説く。「この極無自性心の一句に


ことごとく華厳の教えをおさめ尽くす」と。

なぜなら『華厳教』の大意は始めをたずね、


終わりを求めるに、絶対の真理の世界はそれ自体の性をまもらず、条件にしたがって存することを明らかにするからである。


杜順和上はこの真理によって、『華厳五教止観』一巻、『華厳三昧法界観』一巻などを作り、


弟子のちごんがこれをうけつぎ、ちごんの法蔵法師はまた

五つの教えを広げて、『華厳経指帰』一巻、『綱目』一巻、および『華厳経探玄記』二十巻を作った。


すなわち、これが華厳宗の真理の教えにおける一一の解説の章である。

頌にいわく。六韻
じゅにいわく。ろくいん

風水龍王は一法界なり
ふうすいりゅうおうはいっぽうかいなり

真如生滅、この岑に帰す
しんにょしょうめつ、このみねにきす

輪華、よく体大等を出だす
りんげ、よくたいだいとうをいだす

器衆正覚、極めて甚深なり
きしゅしょうかく、きわめてじんじんなり

縁起の十玄は互に主伴たり
えんぎのpじゅうげんはたがいにしゅばんなり

五教を呑流するは海印の音なり
ごきょうをどんるするはかいいんのこえなり

重重無碍にして帝網に喩う
ちょうちょうむげにしてたいもうにたとう

隠隠たる円融は錠光の心なり
おんおんたるえんゆうはじょうこうのこころなり

華厳三昧は一切の行なり
けごんざんまいはいっさいのぎょうなり

果界の十尊は諸刹に臨めり
かかいのじゅっそんはしょせつにのぞめり

この宮に入るといえども初発の仏なり
このみやにいるといえどもしはつのほとけなり

五相成身、追って尋ぬべし
ごそうじょうしん、おってたずぬべし

『経』にいわく、「有為無為界を離れ、もろもろの造作を離れ、
『きょう』にいわく、「ういむいかいをはなれ、もろもろのぞうさをはなれ、

眼耳鼻舌身意を離れて、極無自性心を生ず。」
げんにびぜっしんにをはなれて、ごくむじしょうしんをしょうず。」

「等虚空無辺の一切の仏法、これに依って相続して生ず。」
とうこくうむへんのいっさいのぶっぽう、これによってそうぞくしてしょうず。

「秘密王、かくの如くの初心をば、仏、成仏の因と説きたまう。
「ひみつおう、かくのごとくのしょしんをば、ほとけ、じょうぶつのいんとときたまう。

業煩悩に於て解脱すれども而も業煩悩の具依たり。」と。
ごうぼんのうにおいてげだつすれどもしかもごうぼんのうのぐえたり。」と。


       まだ、途中です。





詩にいう。六韻

大海中から現れる風水龍王が、頭から水を出し風を起こして、つねに大海に風と水とが絶えないように、現象と実在とは、唯一の宇宙法界におけるものである。

絶対の実在(さとり)と差別相の現象(まよい)とは、唯一の山峰にたとえるところの、この一なる宇宙法界に帰入する。

美しく清らかな輪多梨華(りんたりけ)にたとえるべきわれわれの一心の本性である自性清浄心は、一切の存在の本体・様相・作用を現象する

国土と一切の生きとし生けるものと人間の自覚とは、きわめて甚深である。

縁起性’(えんぎしょう)の無碍を示す一種の範疇は、たがいに主となり従となっている。

また、五教を飲み込むものは、海印三昧における音である。

現象界の万有は、すべての個物と個物とが重々無碍であって、帝釈天の網にたとえるとおりであり、

われわれには分からぬほどに、かすかに完全に融合しあっているさまは、燈の光が帝釈天の網の珠に映じて無限に光を投げ合っているようである。

華厳三昧は、あらゆる宗教的行為を忌みするものであり、

さとりの世界の一切の仏たちは、あらゆる国土にお出ましになっている。

しかし、このような結構な第九住心の宮殿に入るといっても、それは第十住心に較べたら初歩の仏である。

そこで、第十住心において、煩悩の子であるわれわれはそのまま仏であることを観想する五相成身観を求めたずねるがよい。

『大日経』住心品にいう。「迷いの世界とさとりの世界とを離れ、もろもろの造作を離れ、

眼耳鼻舌身意の感官を離れて、極無自性心を生ずる。」

「虚空に等しく無辺のあらゆる仏法(第十住心)はこれ(第九住心)より次第に生ずる。」

「秘密王よ。こうした初心(第九住心)を仏は仏となる因であると説かれる。

業煩悩から解放されても、なお微細な業煩悩をもっている。」と。












第十秘密荘厳心  六韻

 九種の住心は自性なし 転深転妙にして、みな、これ因なり
  きゅうしゅのじゅうしんはじしょうなし てんじんてんみょうにして、みな、これいんなり

 真言密教は法身の説 秘密金剛は最勝の真なり
  しんごんみっきょうはほうしんのせつ ひみつこんごうはさいしょうのしんなり

 五相五智法界体 四曼、四印、この心を陳ず
  ごそうごちほうかいたい しまん、しいん、このこころにちんず

 刹塵の渤駄は吾が心の仏なり 海滴の金蓮はまた我が身なり
  せつじんのぼったはわがこころのほとけなり かいてきのこんれんはまたわがみなり

 一一の字門、万像を含み 一一の刀金、みな、神(力)を現ず
  いちいちのじも、まんぞうをふくに いちいちのとうこん、みなじんりきをげんず

 万徳の自性、輪円して足れり 一生に荘厳の仁を証することを得べし
  まんどくのじしょう、りんえんしてたれり いっしょうにしょうごんのじんをしょうすることをうべし

 『経』にいわく、「また次に、秘密主、真言門の菩薩の行するもろもろの菩薩は、
  『きょう』にいわく、「またつぎにひみつしゅ、しんごんもんにぼさつのぎょうをするもろもろのぼさつは、

 無量無数百千倶胝・那?多 劫に積集せる無量の功徳智慧と、具に諸行を修する
  むりょうむすうはやくせんくてい・なゆた こうにしゃくじゅうせるむりょうのくどくちえと、つぶさにしょぎょうをしゅうする

 無量の智慧方便と、みな、ことごとく成就す」と。
  むりょうのちえほうべんと、みなことごとくじょうじゅす」と。

 解していわく、「これは初めて真言に入る菩薩の功徳を歎ず」。
  げしていわく、「これははじめてしんごんにいるぼさつのくだくをたんず」。
  
 またいわく、「その時に毘盧遮那世尊、一切如来一体速疾力三昧に入って、
  またいわく、「そのときにびるしゃなせそん、いっさいにょらいいったいそくしつりきさんまいにいって、

 自証の法界体性三昧を説いてのたまわく、
  じしょうのほうかいたいしょうさんまいをといてのたまわく、

    我、本不生を覚り
     われ、ほんふしょうをさとり

    語言の道を出過し、諸過、解脱することを得
     ごごんのみちをしゅっかし、しょか、げだつすることをう

    因縁を遠離し、空は空虚に等しと知って
     いんねんをおんりし、くうはくうきょにひとしとしって

    如実相の智生ず
     にょじつそうのちしょうず

    已に一切の暗を離れぬれば、第一実無垢なり」と。
     すでにいっさいのあんをはなれぬれは、だいいちじつむくなり」と。

 解していわく、「この頌は文約にして義広く、言は浮かんで心深し。
  げしていわくこのじゅはぶんやくにしてぎひろく、ごんはうかんでこころふかし。

 面にあらずんば説き難し」。
  めんにあらずんばときがたし。」。

凡月輪に一十六分あり。『瑜伽』の中に金剛薩たより金剛拳に至るまで
  およそがちりんにいちじゅうろくぶんあり。『ゆが』のなかにこんごうさったよりこんごうけんにいたるまで

 十六大菩薩なる者あるに喩う。
  じゅうろくだいぼさつなるものあるにたとう。

 三十七尊の中に五方の仏位、各、一智を表す。
  さんじゅうしちそんのなかにおいてごほうのぶつい、おのおの、いっちをあらわす。

 東方の阿しゅく仏は大円鏡智を成ずるに由ってまた金剛智と名づく。
  とうほうのあしゅくぶつはだいえんきょうちをしょうずるによってまたこんごうち
  となづく。

 南方の宝生仏は平等性智を成ずるに由ってまた灌頂智と名づく。
  なんぽうのほうしょうぶつはびょうどうしょうちをしょうずるによってまたかんじょうちとなづく。

 西方の阿弥陀仏は妙観察智を成ずるに由って、また蓮華智と名づけ、
  さいほうのあみだぶつはみょうかんさつちをしょうずるによってまたれんげちとなづけ、

 また転法輪智と名づく。
  またてんぼうりんちとなづく。

 北方の不空成就仏は成所作智を成ずるに由って、また羯磨智と名づく。
  ほっぽうのふくうじょうじゅぶつはじょうさちをしょうずるによって、またかつまちとなづく。

 中方の毘遮那盧遮那仏は法界智を成ずるに由って本とす。
  ちゅうほうのびるしゃなぶつはほうかいちをしょうずるによってほんとす。
九種の住心はそれ自体の性をまたない。深くして妙なる第十住心に映るべきものだから、九つみんな、第十住心の因である。


真言密教は法身大日如来の説であり、金剛のごとき秘密の世界はもっと勝れた真実である。


五相成身観と五仏の五智と法界体性智と四種曼荼羅と四種智印とは、この第十住心で説く。


数限りない仏はわが心の仏であり、大海のしずくほどもある無数の金剛部、蓮華部などの菩薩たちはまた、わがからだである。


阿字などの字門のひとつ一つにはそれぞれに万象をふくみ、刀剣や金剛杵の一つひとつにおいて、みな不可思議な力を象徴する。


あらゆる徳のそれ自体の性が、わが心身にすっかり備わっている。だから、現世で立派な仏となることができる。


『大日経』住心品にいう。「これは初めて真言の教えに入る菩薩の実践を行う菩薩たちは、

無量無数百千倶胝、那?多の劫の間に積み集めた無量の智慧と、つぶさにもろもろの実践をなすための、


無尽の救いの手立てとして示される智慧とを、みなことごとく完成する。」と。


注釈していう。「これは初めて真言の教えに入る菩薩の功徳をたたえたものである。」


またいう。「そのとき、大日如来はあらゆる仏と一つであって、迅速な力という精神統一に入り、


自ら証した真理の世界の本体という精神統一を説いていわれるのに、


  わたしはすべては本来生起しないものであることをさとり


  言葉の道を越え出て、もろもろの罪過より解放されることができる


  原因と条件とを遠く離れ、真実の空は虚空に等しいと知って


  ありのままの相の智慧が生ずる


  すでにあらゆる迷いの暗黒を離れたならば絶対であって汚れがない。」と。


注解していう。「この詩は文はは簡単だが内容は広く、言葉は緩やかだが意味は深い。


直接授けなければ説きがたい。」


およそ月輪には十六の区分がある。『金剛頂瑜伽経』の中の金剛薩たより金剛拳菩薩にいたるまでの


十六大菩薩にたとえる。


金剛界三十七尊の中で、五つの方位にある仏の位に、おのおの一つづつの智慧を表す。


東方の阿しゅく仏は大円鏡智を完成するから、金剛智とも名づける。


南方の宝生物は平等性智を完成するから、灌頂智とも名づける。


西方の阿弥陀仏は妙観察智を完成するから、蓮華智とも名づけ、


また転法輪智とも名づける。


北方の不空成就仏は成所作智を完成するから、羯磨智とも名づける。


中央の大日如来は法界体性智を完成するから、根本智という。
また、百字輪十二字等の真言観法三摩地門、
  また、ひゃきじりんじゅうにじとうのしんごんかんぽうさんまじもん、

及び金剛界三十七尊四智印の三摩地あり。
  およびこんごうかいさんじゅうしちそんしちいんのさんまじあり。

すなわちこれ大日如来の極秘の三昧なり。
  すなわちこれだいにちにょらいのごくひのさんまいなり。

文広うして具に述ぶること能わず。
  ぶんひろうしてtsぶさにのぶることあたわず。

 また、龍猛菩薩の『菩提心論』にいわく、
  また、りゅうみょうぼさつの『ぼだいしんろん』にいわく、

「第三の三摩地といっぱ、真言行人、かくの如く観じ已って
 「だいさんにさんまじといっぱ、真言ぎょうにん、かくのごとくかんじおわって

云何がよく無上菩薩を証する。
 いかんがよくむじょうぼさつをしょうする。

当に知るべし、法爾に応に普賢大菩薩心に住すべし。』
 まさにしるべし、ほうににまさにふげんだいぼさつしんにじゅうすべし。」

 一切衆生は本有の薩たまれども、貪・瞋・痴の煩悩のために
  いっさいしゅじょうはほんぬのさったなれども、とんじんちの
  ぼんのうのために

縛せらるるが故に、諸仏の大悲、善巧智をもって
  ばくせらるるがゆえに、しょぶつのたいひ、ぜんぎょうちをもって

この甚深秘密瑜伽を説いて、修行者をして
  このじんじんひみつゆがをといて、しゅぎょうじゃをして

内心の中に於いて日月輪を観ぜしむ。
  ないしんのなかにおいてにちがちりんをかんぜしむ。

この観を作すに由って本心を照見するに、
  このかんをなすによってほんしんをしょうけんするに、

湛然清浄なること猶し満月の光、虚空に遍じて
  たんねんしょうじょうなることなおしまんげつのひかり、こくうにへんじて

分別するところなきが如し。また、無覚了と名づけ、
  ふんべつすることなきがごとし。また、むかくりょうとなぢけ、

また浄法界と名づけ、または実相般若波羅蜜海と名づく。
  またじょうほうかいとなづけ、またはじっそうはんにゃはらみつ
  かいとなづく。

よく種種無量の珍宝三摩地を含すること、
  よくしじゅむりょうのちんぽうさんまじをがんすると、

猶し満月の潔白分明なるが如し、何となれば、
  なおしまんげつのけっぱくふんみょうなるがごとし、なんとなれば、

いわく一切有情は、ことごとく普賢の心を含せり。
  うわくいっさいうじょうは、ことごとくふげんのこころをがんせり。

我、自心を見るに、形、月輪の如し。
  われ、みずからこころをみるに、かたち、がちりんのごとし。

何は故にか月輪をもって喩とすとならば、為わく、
  いかんがゆえにかがちりんをもってゆとすとならば、おもわく、

満月円明の体は、すなわち菩提心と相類せり。
  まんげつえんみょうのたいは、すなわちぼだいしんとあいるいせり。
また、『大日経』には百字輪、十二字などの真言の観想の仕方である精神統一の教え、


および金剛界曼荼羅の三十七尊や四智印の精神統一がある。


すなわち、これは大日如来の極秘の精神統一である。


その文は広くして、くわしく述べることができない。


また、龍猛菩薩の『菩提心論』にいううことには、

「第三に精神統一というものは、真言の実践者はこのように観想してから

どのようにしてよく無上のさとりをえることができるのか。

おのずからに普賢菩薩の偉大なるさとりを求める心に住すべきである。」


すべての人々は本来金剛薩たであるが、むさぼり・いかり・おろかさの煩悩のために

縛られているから、もろもろの仏の偉大な慈愛にもとづく巧みな救いの手立ての智慧をもって、

この非常に深い秘められた瞑想を説いて、修行する者をして


内心に日輪と月輪とを観想させる。


この観想をすることによって、本来の心を照見するに、


それが静かで清らかなことは、あたかも月の光が虚空にあまねくして


分け隔てがないようなものである。それはまた、すべての知覚・思慮を離れたものとも名づけ、


またそれは真実相のさとりの智慧の実践の海と名づける。


これは、よく、さまざまな無量の珍奇な宝という精神統一をふくんであり、


それは清らかで明るい満月のようである。なぜなら、


すべて生きとし生けるものは、普賢菩薩の心を持っているからである。


わたしは自らの心を見るに、形は月輪のようである。


なぜ、そのかたちを月輪にたとえるかというと、


満月のまるくて明るいかたちは、そのままさとりを求める心と似ているからである。
凡月輪に一十六分あり。『瑜伽』の中に金剛薩たより金剛拳に至るまで
  およそがちりんにいちじゅうろくぶんあり。『ゆが』のなかにこんごうさったよりこんごうけんにいたるまで

 十六大菩薩なる者あるに喩う。
  じゅうろくだいぼさつなるものあるにたとう。

 三十七尊の中に五方の仏位、各、一智を表す。
  さんじゅうしちそんのなかにおいてごほうのぶつい、おのおの、いっちをあらわす。

 東方の阿しゅく仏は大円鏡智を成ずるに由ってまた金剛智と名づく。
  とうほうのあしゅくぶつはだいえんきょうちをしょうずるによってまたこんごうちとなづく。

 南方の宝生仏は平等性智を成ずるに由ってまた灌頂智と名づく。
  なんぽうのほうしょうぶつはびょうどうしょうちをしょうずるによってまたかんじょうちとなづく。

 西方の阿弥陀仏は妙観察智を成ずるに由って、また蓮華智と名づけ、
  さいほうのあみだぶつはみょうかんさつちをしょうずるによってまたれんげちとなづけ、

 また転法輪智と名づく。
  またてんぼうりんちとなづく。

 北方の不空成就仏は成所作智を成ずるに由って、また羯磨智と名づく。
  ほっぽうのふくうじょうじゅぶつはじょうさちをしょうずるによって、またかつまちとなづく。

 中方の毘遮那盧遮那仏は法界智を成ずるに由って本とす。
  ちゅうほうのびるしゃなぶつはほうかいちをしょうずるによってほんとす。
およそ月輪には十六の区分がある。『金剛頂瑜伽経』の中の金剛薩たより金剛拳菩薩にいたるまでの


十六大菩薩にたとえる。



金剛界三十七尊の中で、五つの方位にある仏の位に、おのおの一つづつの智慧を表す。



東方の阿しゅく仏は大円鏡智を完成するから、金剛智とも名づける。



南方の宝生物は平等性智を完成するから、灌頂智とも名づける。



西方の阿弥陀仏は妙観察智を完成するから、蓮華智とも名づけ、


また転法輪智とも名づける。


北方の不空成就仏は成所作智を完成するから、羯磨智とも名づける。


中央の大日如来は法界体性智を完成するから、根本智という。
 已上の四仏智より四波羅蜜菩薩を出生す。
  いじょうのしぶつちよりしはらみつぼさつをしゅっせいす。

 四菩薩はすなわち金宝法業なり。
  しぼさつはすなわちきんぽうほうぎょうなり。

 三世一切のもろもろの聖賢生成養育の母なり。
  さんぜいいっさいのもろもろのしょうけんせいじょうよういくのははなり。

 ここに印成せる法界体性の中より四仏を流出す。
  ここにいんじょうせるほっかいたいしょうのなかよりしぶつをりゅうしゅつす。

 四方の如来に各、四菩薩を摂す。
  しほうのにょらいにおのおの、しぼさつをせっす。

 東方の阿しゅく仏に四菩薩を摂す、 
  とうほうのあしゅくぶつにしばさつをせっす、

 金剛薩た・金剛王・金剛愛・金剛善哉を四菩薩とす。
  こんごうさった・こんごうおう・こんごうあい・こんごうぜんざいをしぼさつとす。

 南方の宝生仏に四菩薩を摂す、
  なんぽうのほうしょうぶつにしぼさつをせっす、

 金剛宝・金剛光・金剛幢・金剛笑を四菩薩とす。
  こんごうほう・こんごうこう・こんごうどう・こんごうしょうをしぼさつとす。

 西方の阿弥陀仏に四菩薩を摂す、
  せいほうのあみだぶつにしぼさつをせっす。

 金剛法・金剛利・金剛因・金剛語を四菩薩とす。
  こんごうほう・こんごうり・こんごういん・こんごうぎょえおしぼさつとす。

 北方の不空成就仏に四菩薩を摂す、
  ほっぽうのふくうじょうじゅぶつにしぼさつをせっす、

 金剛業・金剛護・金剛牙・金剛拳を四菩薩とす。
  こんごうぎょう・こんごうご・こんごうげ・こんごうけんをしぼさつとす。

 四方の仏の各の、四菩薩を十六大菩薩とす。
  しほうのほとけのおのおのの、しぼさつをじゅうろくだいぼさつとす。

 三十七尊の中に於て五仏、四波羅蜜、及び後の四摂・八供養を除いて
  さんじゅうしちそんびなかにおいてごぶつ、しはらみつ、および
  あとのしせつ、はっくようをのぞいて

 但し十六大菩薩の四方の仏の所摂たるを取る。
  ただしじゅうろくだいぼさつのしほうのほとけのしょせつたるをとる。

 また、『摩訶般若経』の中に、内空より無性自性空に至るまで、
  また、『まかはんにゃきょう』のなかに、ないくうよりむしょうじしょうくうに
  いたるまで、

 また十六の義あり。
  またじゅうろくぎあり。

 一切有情は心質の中に於て一分に浄性あり。
  いっさいうじょうはしんぜつのなかにおいていちぶのじょうしょうあり。

 衆行、みな備われり。
  しゅぎょう、みな、そなわれり。

 その体、極微妙にして、皎然明白なり。
  そのたい、ごくびみょうにして、こうねんみょうびゃくなり。

 ないし六趣に輪廻すれども、また変易せず。
  ないしろくしゅにりんねすれども、またへんにゃくせず。

 月の十六分の一の如し。
  つきのじゅうろくぶんのいちのごとし。

 凡月の一分の明性、もし合宿の際に当りぬれば、
  およそつきのそのいちぶのみょうしょう、もしがっしゅくのさいにあたりぬれば、

 但し日光のためにその明相を奪わる、所以に現ぜず。
  ただしにっこうのためにそのみょうそうをうばわる、このゆえんにげんぜず。

 後、起つ月の初めより日日に漸く加して
  のち、たつつきのはじめよりひびにようやくまして

 十五日に至って円満無げなり。
  じゅうごにちにいたってえんまんむげなり。

 所以に観行者、はじめに阿字をもって本心の中の分の明を発起して、
  このゆえにかんぎょうじゃ、はじめにあじをもってほんしんのなかのぶんのみょうをほっきして、

 ただし漸く潔白分明ならしめて、無生智を証す。
  ただしようやくけっぱくふんみょうならしめて、むしょうちをしょうす。


     金剛界曼荼羅 成身会

以上の四仏の智慧より四波羅蜜菩薩菩薩を出生する。


この四人の菩薩とは金剛・宝・法・業である。


過去・未来・現在の三世のすべてのもろもろの聖者を生み育てる母である。


ここに四人の菩薩を出生した四仏は、もとの法界体性智より流出したものである。


四方の如来には、それぞれ四人の菩薩をおさめる。


東方の阿しゅく仏におさめる四人の菩薩は、金剛薩た・金剛王・金剛愛・金剛善哉の菩薩とする。


南方の宝生仏におさめる四人の菩薩は、金剛宝・金剛光・金剛幢・金剛笑を菩薩とする。


西方の阿弥陀仏におさめる四人は、金剛法・金剛利・金剛因・金剛語の菩薩。


北方の不空成就仏の四人は、金剛業・金剛護・金剛牙・金剛拳の菩薩とする。


四方の仏におのおのの四人の菩薩があるので、十六大菩薩となる。


金剛界の三十七尊の中で五仏・四波羅蜜および四摂・八供養を除いて


四方の仏におさめられるただ十六大菩薩だけをとる。


また、『摩訶般若経』の中に、内空より無性自性空にいたるまで、

また十六の意味がある。


すべての生けるものは一心の本質の中において一部分の清らかな性質がある。

もろもろの実践が、みな備わっている。

その本体はきわめて妙なるもので、清くして明白である。

あらゆる迷いの世界をめぐってもまた変わらない。


月の十六分の一のようである。


そもそも月のその一部分の明らかな性はもし太陽と会ったときには、


しかし、日光のためにその明らかな相が失われる。だから、光ることがない。


だが、後に起こる月の朔日(ついたち)から日毎に次第に光を増して


十五日になってまるくなり、さまたげないものとなる。


だから、観想し実践する者は初めて本来の心の中の一部分を明らかにし、


だんだん清く明らかならしめて、無生智を得る。
それ、阿字とは一切諸法本不生の義なり。
 それ、あじとはいっさいしょほうほんぶしょうのぎなり。

<毘盧遮那経の『疏』に准ぜば、阿字を釈するに具に五義あり、
 <びるしゃなきょうの『しょ』にじゅんぜば、あじをしゃくするに
   つぶさにごぎあり、

一には阿字短声これ菩提心、二には阿字引声これ菩提行、
  いちにはあじたんせいこれぼだいしん、ににはあじいんせい
   これぼだいぎょう、

三には暗字短声これ証菩提の義なり、
  あんじたんせいこれしょうぼだいのぎなり、

四には悪字短声これ般涅槃の義なり、
  しにはあくじたんせいこれはんねはんのぎなり、

五には悪字引声これ具足方便智の義なり。
  ごにはあくじいんせいこれぐそくほうべんちのぎなり。

また、阿字をもって『法華経』の中の開示悟入の四字に
配解せば、

  また、あじをもって『ほけきょう』のななのかいじごにゅうのよじにはいかいせば、

開の字とは仏知見を解く。すなわち雙べて菩提心を開く。
  かいにじとはぶっちけんをひらく。すなわちならべて
   ぼだいしんをひらく。

初めの阿字の如し。これ菩提心の義なり。
  はじめのあじのごとし。これぼだいしんのぎなり。

示の字とは仏知見を示す。第二の阿字の如し。
  じのじとはぶっちけんをしめす。だいにのあじのごとし。

これ菩提行の義なり。悟の字とは仏知見を悟る。
  これぼだいぎょうのぎなり。ごのじとはぶっちけんをさとる。

第三の暗字の如し。これ証菩提の義なり。
  だいさんのあんじのごとし。これしょうぼだいのぎなり。

入の字とは仏知見に入る。第四の悪字の如し。
  にゅうのじとはぶっちけんにいる。だいよんのあくじのごとし。

これ般涅槃の義なり。総じてこれをいわば、
  これはんねはんのぎなり。そうじてこれをいわば、

具足成就の第五の悪字なり。
  ぐそくじょうじゅのだいごのかくじなり。

これ方便善巧智円満の義なり。>
  これほうべんぜんこうちえんまんのぎなり。>

すなわち、阿字、これ菩提心の義なることを讃ずる頌にいわく、
  すなわち、あじ、これ菩提心の儀なることをさんずるじゅにいわく、

    八葉の白蓮一肘の間に
      はちようのびゃくれんいっちゅうのかんに

    阿字素光の色を炳現す
      あじそこうのしきをへいげんす

    禅智倶に金剛縛に入れて
      ぜんちともにこんごうばくにいれて

    如来の寂静地を召入す
      にょらいのじゃくじょうちをしょうにゅうす

それ、阿字に会う者は、みな、これ決定してこれを観ずべし。
  それ、あじにあうものは、みな、これをけっていして
  これをかんずべし。

当に円明の浄識を観ずべし。
  まさにえんみょうのじょうしきをかんずべし。

もし纔かに見るをばすなわち真勝義諦を見ると名づけ、
  もしわずかにみるをばすなわちしんしょうぎていをみるとなづけ、

もし常に見ればすなわち菩薩の初地に入る。
  もしつねにみればすなわちぼさつのしょちにいる。

もし転た漸く増長すればすなわち廓、法界に周く、
  もしうたたようやくぞうちょうすればすなわちかく、
  ほうかいにあまねく、

量、虚空に等し。巻舒自在にして当に一切智を具すべし。
  りょう、こくうにひとし。けんじょじざいにしてまさに
  いっさいちをぐすべし。
そもそも、阿字とはあらゆるものは本来生起しないという意味をもつ。

<『大日経疏』第十四によれば、阿字を註解するのに、くわしくは五つの意味がある。

一つには阿字短声(a)で、これは菩提心。二つには阿字引声(a-)で、これは菩提行。

三つには暗字短声(am,)で、これは証菩提を意味する。

四つには悪字短声(ah,)で、これは般涅槃を意味する。

五つには悪字引声(a-m,h,)で、これは具足方便智を意味する。

また、阿字をもって『法華経』の中の開・示・悟・入の四字に配当して解釈すれば、

開の字は仏知見を開くことである。すなわち、ふたつながらに菩提心を開くこと。


初めの阿字と同じである。これは菩提心を意味する。


示の字は仏知見を示すことである。第二の阿字と同じである。


これは菩提行を意味する。悟の字は仏知見を悟ることである。


第三の暗字と同じである。これは証菩提を意味する。


入の字は仏知見に入ることである。第四の悪字と同じである。


これは般涅槃を意味する。まとめてこれをいえば、


具足成就の第五の悪字である。


これは方便善巧智円満を意味する。


すなわち、阿字は菩提を求める心を意味することを讃える詩にいう。

 八つのはなびらをもつ白蓮華の上に
 一肘量の大きさの月輪を置いて
 その月輪の中に白光色の阿字を明らかに現わす
 外縛印を結んで、両方の親指を中に入れて
 仏のさとりの智慧を自らの心に招きいれる。


そもそも、この阿字を知る者は、みな、必ずこのことを観想すべきである。

すなわち、まどかで明らかな清き心を観想しなければならない。

もし少しでも見るならば真実の最高心理を見ると名づけ、

もし常に見るならば、菩薩の初地に入る。

もし、いよいよだんだんに増長すれば、その大きさは宇宙にひろがり、

分量は虚空に等しい。のびちじみが自由で全智を備えることができる。

凡ゆ伽観行を修習する人は当に須く具に
およそゆがかんぎょうをしゅうしゅうするひとはまさにすべからくつぶさに


三密の行を修して五相成身の義を証悟すべし。
さんみつのぎょうをしゅうしてごそうじょうしんのぎをしょうごすべし。

いうところの三密とは、一に身密とは契印を結んで
いうところのさんみつとは、いちにしんみつとはけいいんをむすんで

聖衆を召請するが如き、これなり。
せいしゅうをしょうしょうするがごとき、これなり。

二には語密とは密かに真言を誦して文句をして
にには、ごみつとはひそかにしんごんをじゅしてもんくをして

了了分明ならしめて誤謬なきが如きなり。
りょうりょうふんめいならしめてびゅうごなきがごときなり。

三には意密とはゆ伽に住して白浄月の円満に相応し、
さんにはいみつとはゆがにじゅうしてはくじょうげつのえんまんにそうおうし、

菩提心を観ずるが如きなり。
ばだいしんをかんずるがごときなり。

次に五相成身を明かさば、一にはこれ通達心、
つぎにごそうじょうしんをあかさば、いちにはこれつうたつしん、

二にはこれ成菩提心、三にはこれ金剛心、
ににはこえじょうぼだいしん、さんにはこれこんごうしん、

四にはこれ金剛身、五にはこれ無上菩提を証して
しにはこれこんごうしん、ごにはこれむじょうぼだいをしょうして

金剛堅固の身を獲るなり。然れどもこの五相、
こんごうけんごのみをうるなり。しかれだもこのごそう、

具に備うれば、方に本尊の身と成る。
つぶさにそなうれば、まさにほんぞんのみとなる。

その円明はすなわち普賢の身なり。
そのえんめいはすなわちふげんのみなり。

またこれ普賢の心なり。十方の諸仏とこれ同じ。
またこれふげんのこころなり。じっぽうのしょぶつとこれおなじ、

またすなわち三世の修行、証に前後あれども、
またすなわちさんぜのしゅぎょう、しょうにぜんごあれども、

達悟に及び已んぬれば去来今なし。
たつごにおよびおわんぬればこらいこんなし。

凡人の心は合蓮華の如く、仏心は満月の如し。
およそひとのこころはごうれんげのごとく、ぶっしんはまんげつのごとし。

この観、もし成ずれば、十方国土のもしは浄、もしは穢、
このかん、もしじょうずれば、じっぽうこくどのもしはじょう、もしはえ、

六道の含識、三乗の行位、及び三世の国土の成壊、
りくどうのがんしき、さんじょうのぎょうい、およびさんぜのこくどのじょうえ、

衆生の業の差別、菩薩の因地の行相、三世の諸仏
しゅじょうのぎょうのしゃべつ、ぼさつのいんちのぎょうそう、さんぜのしょぶつ、

ことごとく中に於て現じ、本尊の身を証して
ことごとくなかにおいてげんじ、ほんぞんのみをしょうして

普賢の一切の行願を満足す。
ふげんのいっさいのぎょうがんをまんぞくす。

故に『大毘盧遮那経』にいわく、「かくの如く真実心は
ゆえに『だいびるしゃなきょう』にいわく、「かくのごとくしんじつしんは

故仏の宣説したもうところなり。」と。
こぶつのせんせつしたもうところなり。」と。
そもそも瞑想の観層を実践する者は、よろしく、まめに


三密の実践を行って五相成身のむねをさとるべきである。


いわゆる三密とは、一つに身密とは手に印を結んで


仏菩薩を招くにが、それである。


二つに語密とは、ひそかに真言を誦えて文句を


きわめて明らかにして誤りないのが、それである。


三つに意密とは、瞑想に住して白く清らかな月がすっかりまるくなって、


それをもって菩提を求むる心を観想するのが、それである。


次に五相成身観を説明すれば、一つには通達心、


二つには成菩提心、三つには金剛心、


四つには金剛身、五つには無上菩提を証(あか)して


金剛堅固の身と成る。そのまどかで明らかなさまは、


そのまま普賢菩薩の心である。十方の仏たちとこれは同じである。


またそこで過去・未来・現在の三世の修行とさとりとにあとさきがあるにしても、


さとりに達すれば、過去・未来・現在は存しない。


なみの人の心はつぼみのままの蓮華のようであり、仏の心は満月と同じである。


十方の国土は清らかでも汚れていても、


あらゆる迷いの世界の生けるもの、声聞・縁覚・菩薩の三乗の修行の段階および過去・未来・現在の三世の国土の生成と破滅、


生きとし生けるものの業の区別、菩薩の修行段階における実践の相、三世の仏たち、


これらがすべてそこに現れ、本尊の身を証して


普賢菩薩のすべての行願を満す。


だから、『大日経』にいう。「こうした真実心は、


過去の仏が説かれたところである。」と。
以下、即身成仏への誘いとさとりの世界への道程についての著述。

十住心論の解説