☆初めて四国に向かった日、歩きの遍路の方を見かけました。

 「仕事もしないで社会的貢献をしない人がいるんだ。」といささか見下してしまっていました。以後、何度もお接待をしてお札をいただいたり、お話することがありました。学生であったり仕事をやめた人やリタイアした方。また中年の女性おひとりだったり。

 それぞれの方が、それぞれの過去を背負って歩いておられるのです。もちろん、暗黙の了解で身の上は聞きません。そんなの関係ないのです。

 では、私はどうして四国に出たのでしょう。どんな人間にも内在している「むさぼりといかりとおろかさ」に、裏切りとか不信というような次元でなく、またなすすべもない及ぶことのできない「悲しみ」のなかで、それらを乗り越えて愛する人を愛せる自分でありたいと、こころから願うからです。

 『心願成就』と願います。その「心願」は、自分の「心の不安」を越えられる「信じる愛」です。虚飾といわれる現代社会の人間関係を、否定はしません。うまく過ごせばいいだけです。でも、それに翻弄されている自分に気付くことですね。

 少しばかりの悲しみが、大きな慈しみを生むのかもしれませんね。大きな悲しみは仏にお任せして、私たちもまた、「慈悲」に目覚めなければなりません。その欲求こそ、「原背景」としての人間存在かもしれません。「心象風景への回帰」が遍路かもしれませんね。

 中学生の頃「人はなんで生きるか」と疑問に思ってから、長い間そのことすら忘れていました。 『存在因(なぜ自分は生きているのか)』は、宗教や哲学でしか解釈できないのでしょうか。

 歩いていると、純粋に考えることができます。そんな時間的・精神的余裕があります。

 「なぜ歩くの?」
  
 答えは、「お大師さまに呼ばれたから」。私のDNAに摺り込まれた、説明のつかない欲求。「心の不安」からの「逃避」ではなく、
 「積極的な対応」への行動。

 さてさて、お大師さまは私に何を気付けとおっしゃっておられるのでしょうか。

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