貝が蓋をしめるように
 

 またひとつ学びました。わたし、当分蓋を閉めます。

ちょっぴり信頼していた人に、ひどく裏切られた気分です。私は今、あまりにも単純に、人を信じてしまい、そして踏みにじられることに、かなり怯えています。

人生はいろいろあるものです。いつも何か調子に乗って、深くかんがえもしないで思うがままに過ごしています。瞬間の感情に任せて生きています。今回もそうでした。

先日、なんと数年ぶりに突然メールがきました。それも、ヘルプメールです。懐かしい、15年来の尊敬している方からです。私が仏教を学ぶきっかけになった大事な方です。ここ最近は、FBもネットも閉鎖しているようでした。いささか心配していましたが、ネット上のお付き合いってそんなものだと思っています。

分かったことは、ネット上の旧知のひとでも、その方のことってなにも知らないのだと気づきました。直接御話ししました。私たちがお互いに、なにも個人的に知らないことも。その方は、心身ともにかなり弱っておられるようで、お医者さんにも通っておられます。ここ数年の出来事で、滅入っておられるようでした。それでも、私は今後もできることをご支援していきたいと思っています。

人生のこの先にお悩みのようで、なにか私にできるお手伝いはないかと仕事や住まいについて、最近知り合った方に相談したのです。それが間違いでした。この相談事が、ひとり歩きしたのです。上記のように、かなり弱っておられることが分かったので、急いで事を進めることが難しいと私は判断し、私が相談を持ち掛けた人にも、当分は様子を見るから、今は動かないと申し上げたのに、その方は自分でしらべたりして、「そんな方と付き合っていたら、まずい」と、「あなたのためだから」って、自分の判断を言いにくる始末。

私は、15年来のお付き合いの人を、わずか数回しかお話していない人が評価して、それを押し付けてくる。思えば、一度お会いしただけの時に、「あなたは、使い道がある」というようなことを言ってました。そして、電話で要請があって、また手伝ってくれって。

気の良いわたしは、労力は惜しみませんから頼られたら、全力でお手伝い。親身に今後の発展のことも考えていましたら、「採算がとれなかったら2年で手を引く」とはっきり言う。

自己紹介に、自分を「神」と名乗る人物。どうやら信仰心や崇拝の感情もなさそうです。お四国や西国の巡礼も重ねているようですが、自分を深め、「如来蔵」を目覚めさせるためではなさそうです。もうすぐ法名を名乗るようですが、これも信仰心ではなく、ステイタスかそれともなにか利益のためのパフォーマンス。心身の弱った人や障害に苦しむ人への共感理解や親身な支援とは、およそ無縁な人だとわかりました。少なくとも、私の尊厳は踏みにじられました。

最後の言葉が、「気を悪くしたのなら、謝ります。」でした、弁解と自己の正当性しか話さない。逆に「そんな些細なことで、なぜ自分が謝らねばならないのか」と。相手を慮る気持ちもない。

となると、私はこれ以上彼と関わらないのが得策だと判断しました。言葉巧みに、気のいいお調子乗りのわたしが利用され、私の本意ではないレベルで振り回されているのだろうと思いました。そんな人たちの仲間入りはこりごりです。各自が自分の利益のためにお互いを利用する世界。駆け引き上手が、人間的価値だとする世界。

世の中には、いろんな人がいます。現役時代は、そんな人たちとも仕事として接触もあり、また一緒に働きましたが、今はもう利害や損得は全くありません。義理不義理も当然ありません。私からのボランティア活動ですから、いつ辞退するかも私の判断でします。

躊躇はしません。それが後から後悔となることはありません。だって、プラスがなくなるだけで、マイナスがないのですから。そう、元に戻るだけなんです。出来事が始まる以前に、戻すだけです。まるで、貝が瞬間に蓋を閉じるように。

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