四国八十八ヶ所道開

経本は「新版 真言在家勤行集」。発行は京都の大八木興文堂。

四国八十八ヶ所道開

至心帰命遍照尊本地は法身盧舎那佛そのかみ大悲の願ありて

垂跡和光に身を降しわが日の本にあとを垂る父は佐伯の善通卿

母は阿刀の姓にして玉寄御前と称すなりある夜の夢に御佛を胎にやどすと見玉いて

宝亀五年の甲寅六月十五の虎の刻誕生ありし霊跡は讃州多度の郡なる屏風ヶ浦の善

通寺出家修道のそののちは父母の菩提を祈らんと誕生ありし御殿をば七堂伽藍となし

玉い父の御名の善通を寺号と成して善通寺誕生院と名付けたり幼き時の遊びには仙遊

が原に出で給い泥の佛を作りつつ礼拝供養をなしたまうげに栴檀はふたばより香りゆ

かしき稚児大師御年七つの誓いには一切衆生を救わんと雲にそびゆる高峯より千尋の

谷へ捨てる身を天女くだりて抱きとめ尊體守護を成しければ釈迦牟尼如来出現し意願

成就と告げたまうこれぞ名にあう出釈迦寺捨身が嶽と称すなり


また弥谷に在りしとき巌に作る御佛は金胎両部の曼荼羅や梵文諸佛諸菩薩に手を突く

石も踏む岩も平一面の石佛浄土の體相顕すもみな是一夜の作とかや御年二十歳に槙尾

の勤操僧都に随いて出家得度の式おえて名を空海とあらたもう

そもそも四国八十八ヶ所の由来いかにと尋ねるに延暦二十三年に大師入唐ましまして

真言秘密の教法を恵果阿舎利に受けしより天竺鷲峰の雲に入り釈尊遺跡八塔の霊地を

巡拝なし給いわが日の本の諸人に普く結縁させんとて八塔の土を持ち帰り八つの数を

十倍し元の八塔相そえて八十八の数の砂敷きて伽藍を建立し四国八十八ヶ所の霊場と

こそなし給うそも巡拝のお姿は麻の衣にあじろ笠背に荷俵三衣の袋足中草履をめし給

い首にかけたる札挟み竪六寸に幅二寸金剛杖を右につき左の御手に珠数を持ちきこり

山かつ杣人も通う道なき難所をば毒蛇鬼神を退けて貴賤老若おしなべて通し給うぞ有難き

およそ四国の道のりは阿州は三十七里にて霊場二十三所あり

土佐の札所は十六所八十五里と十五丁伊予には霊場二十六所里程は九十二里五丁讃岐

は二十三所にてその道三十七里半

国の境の道のりは打戻りをも加うれば二百八十八とかや難所を巡る功徳にて四百四病

の畏れなく八十八使の煩悩も一足づつに消えてゆく第一番に阿波の国霊山寺より切幡

へ道は十里十ヶ所立江は四国の関所とて地蔵菩薩の善悪を報いを示す鰐の緒に纏う黒

髪のちの世のみな見せしめと知られけり二十番には来迎の滝に不動の顕れて信ある者

に見え給う二十一番太龍寺世にも名高き霊地にて四国の高野と名付けたり虚空蔵聞持

の法により大師修行の砌には悪霊障りなしければ天より宝剣飛び来り封じ給いし岩屋

あり今も霊水湧き出でて難病苦行の輩を救い給える霊地なり阿波と土州の国境八阪阪

中難所にて八濱濱中また難所飛び石ごろごろの石数々踏み分けて二十四番は東寺是法

姓の室戸にて大師修行の御時に毒蛇の障りありければ室戸と聞けど我がすめば有為の

波風立つなりと咏じて吐し御唾は海に沈みて闇の夜は夜光の玉の如くなりまた足摺は

七不思議龍馬のかいば揺るぎ石いすずの雨に地獄穴汐満ち石にお亀さん泣き石一夜の

鳥居石年の初めのともしびは龍宮城よりかかげけり三十九番の札所には一寸八分の米

もあり八十八の霊跡を米の浄土と云うぞげに業病難病受けし身も餓死するものは更に

なし四十五番は岩屋山押分岩に穴禅定金の鎖に雲梯登るえにしぞ有り難き五十一番石

手寺衛門三郎が前生に大師の加持を蒙りて石を握りて命終し河野の御家に生まれ来て

国主となりて寺を建て石を納めし縁により石手寺とぞ名付けたり七十番の本山寺一夜

に建てし本堂も寸善尺魔の天んじゃこ妨げをなして今の世に野中に柱のこしけり八十

四番と五番をば八栗八島と称すなり八島はしとの霊岩に文殊菩薩の現れて大師へ護法

の契りあり八栗は八つの焼栗に枝葉生じて實を結び大師の法徳現しぬ八十八番大窪寺

医王善逝薬師佛是打ち留めの御本尊衆病悉除を祈れかし大師在世の仰せには一度巡拝

する者は無始の罪障消滅し未来を待たずこの世から極楽界会に入る成りと權化の方便

数多き中にも邪見を戒めて喰わずの芋に喰わず貝喰わずの栗のほとりには年に三度の

栗もなる皆是善悪邪正にて果報は心の種次第いざりは車盲目の杖を納むる霊験は昔も

今も変わりなし七世の父母も苦を逃れ六親眷属もろともに二世の求願を満足し花の臺

に至るとはさても尊き御恩徳仰いで深く信ずべし       南無大師遍照尊  



高野山御(おん)山(やま)開(びらき)

そもそも紀伊の国伊(い)都(と)郡(こうり)高野山は杉(さん)槇(しん)八(はち)面(め

ん)を圍(かこ)み半天別に一界をなし天下夢(む)雙(そう)の名山なり此(この)御(み)

山(やま)を開き給うこと昔高祖弘法大師霊境を求めて周(あまね)く天下を巡り給う所

大(たい)唐(とう)の濱(はま)より投げたもう飛(ひ)行(ぎょう)三(さん)鈷(こ)松の梢

にととまり有るゆえの地にしくしようなしとて御歳四十三歳にして帝(てい)許(きょ)

を蒙(こうむ)り修禪入定の地となし給う高山の頂上に平らなる廣(ひろ)野(の)有(あ

る)を以って高野山と名づくその後世々の聖(せい)帝(てい)高位高官の御方々も運歩

の疲れを厭い給はず参詣し給う霊場たり登る道は七路にして壇場四(よ)方(も)四(し)

遇(ぐう)に遶(めぐ)る峯を内の八葉といい壇場奥の院の外にそびゆるを外の八葉とい

う常に内外八葉の峯の圍(かこ)みたるは恰(あたか)も八葉の蓮華の形なり壇場諸伽藍

拝礼の巡路は梵書の阿の字の形即ち胎臓界の曼荼羅にして花蔵世界を表す是より奥の

院に至る間は梵書の鑁(ばん)の字を踏む是金剛界會の曼荼羅にして密嚴の淨刹を顕

(あらわ)す是阿(あ)鑁(ばん)両壇と申すなり奥の院一の橋中の橋御廟の橋是を俗に無

明の橋と云うこの橋板三十七枚の金剛界會三十七尊に表す裏面は一々その種(しゅ)字

を書す故に犯罪の障り有る者は是を渡ることを得ず長者の萬燈貧者の一燈奥の院の御

玉(おたま)廟(や)に鎮まり給う高祖弘法大師不思議の利益世々に新たなり誠や信あら

ん人々は一度たりとも高野山へ参詣いたし現當二世の罪障消滅極楽値遇の因縁を結び

給うべし     南無大師遍照金剛    

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