女人堂・・・女人禁制について


天野山金剛寺は元々、聖武天皇の勅願により僧侶「行基」が開創し、後にかの有名な「弘法大師」が修行された場所であります。その後四百年ほど寺は衰微してしまいましたが、平安末期に後白河法皇と皇女八條女院の帰依を受けて「阿観上人」が復興されました。特に「八條女院」が、こちらも「弘法大師」で有名な『高野山』より真如親王筆の「弘法大師御影」を賜り『御影堂』に奉安しまして、更に「女性の参拝」を許しました。明治の初めまで「女人禁制」であった、先の『高野山』に対して、天野山金剛寺が『女人高野』と呼ばれるようになったのは、このような由来があったのです。


慈尊院は、弘仁7年(816年)弘法大師(空海)が、高野山開創に際し、高野山参詣の要所にあたるこの地に表玄関として伽藍を草創し、一の庶務を司る政所、高野山への宿所、冬期の避寒修行の場所とされました。(当時の慈尊院は、今の場所より北側にあり、方6丁の広さがあったと伝えられていますが、天文9年(1540年)紀の川の大洪水にて流失しました。しかし、弥勒堂だけは天文6年(1474年)に今の場所に移してあったので、流失をまぬがれました。「我が子が開いている山を一目見たい」弘法大師の御母公が香川県の善通寺より訪ねてこられました。しかし、当時の高野山は女人禁制でありましたので、弘法大師の元には行くことができず、この慈尊院で暮らしておられました。


その昔、高野山には七つの登り口があり、高野七口(こうやななくち)と呼ばれていました。明治5年(1872年)に女人禁制が解かれるまで、女性の立ち入りが厳しく制限され、そのため各登り口に女性のための参籠所が設けられ、女人堂と呼ばれました。現在の高野山女人堂は唯一現存する建物です。


女人禁制の山岳霊場では,山ろくの女人結界地付近の堂が,登山礼拝を許されない女性たちの参籠の場となり,女人堂とよばれたが,名称や信仰形態は一様ではない。越中立山のふもとでは死者をむかえる姥をまつる姥堂,吉野大峰山の旧女人結界地には役行者(えんのぎようじや)の母をまつる母公(ははこ)堂があって,ここまでは女性の参詣が認められていた。また大津市坂本の比叡山旧登山道の結界地の上に,最澄が母と会った故地という花摘(はなつみ)堂があり,旧暦4月8日にかぎって参詣が許され,女性たちが花を供えに登ったと伝える。


御嶽の女人堂は、御嶽の山小屋の中で最も古く、明治初年から 山小屋として営業しています。それまでは非難小屋や修験者のおこもり堂として存在していました。八合目金剛童子より先は神の聖域とされました。女人は登山を許されず、頂上を目指した男性達の帰りを小屋で待っていました。登山が許されなかった女人達が参拝した御堂であることから 「女人堂」 と名づけられています。「女人禁制」とされたその後、明治10年頃から女性の登拝が自由になり (正確な記録はない)現在のような、登山客や信者さんのお宿・休憩所として発展しています。





仏教の女性差別
 経典にある各仏の功徳の中で、女性差別が見えるものの例


    薬師如来
       8、女であることによって起こる修行上の不利な点を取り除く。  

    地蔵菩薩
       11.女が男性に転ずる

    阿弥陀如来
       【35】あらゆる世界の女性達が、我が名を聞いて、喜び信じ、菩提心を発し、我が身を恥じらう思いになるならば
          いのちの終わってのちは、再びもとの身にはならないだろう。