弘法大師 入定信仰について

   「 お大師さんは、火葬されていた?! 」

 第一次感想・・・どこか鞭打たれたような衝撃でした。
   「えっ!お大師さまは、火葬(荼毘)されたのですか?」「じゃあ、あの奥の院の五輪塔の下には何があるのですか?」

 第二次感想・・・改めて考えれば、1000年も生きることはできないのだから、そうかもしれないなあ。でも、「ミイラ」のお体として、居られるのではないのですか。今まで、無意識に避けてきた話題だけれども、きちんと心の整理をしておかないと。

 今の思い・・・・いや、お大師様は、やっぱり奥の院に居られる。いまも私の側に確かに居られる。

空海の入定に関する諸説         出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

高野山奥ノ院の霊廟には現在も空海が禅定を続けているとされる。維那(ゆいな)と呼ばれる仕侍僧が衣服と二時の食事を給仕している。霊廟内の模様は維那以外が窺う事はできず、維那を務めた者も他言しないため一般には不明のままであると言われるが、維那さんも見ることは無い。

      

    5:30と10:30毎朝お供え。


高野山大学選書第4巻『「高野山の伝統と未来』 「高野山の宗教活動」蓮華定院住職 添田隆昭さまを参考にしました。

「大師火葬説」

 ○大正8年、京大教授の喜田貞吉氏が、京都の宗祖降誕会で、述べられたそうです。  「お大師さまは、火葬された。」

   『続日本後記』
  仁明天皇から「空海、紀伊国の禅居に終る。勅して内舎一人を遣わし、法師の喪を弔い、並びに喪料を施す。」
  淳和上皇弔書「禅関僻居し、凶聞晩く伝う。使者奔赴すれども荼毘を相助く能わず。」

   上記のようにあって、高野山からの知らせが遅くて、使者を走らせたが、火葬の手伝いもできなかった。と述べています。

   『実慧が送った恵果和尚の弟子たちへの手紙』
  「和尚、地を南山に卜して、一つの伽藍を置き終焉の地となす。其の名を金剛峰寺と曰う。今上、承和元年をもって都を行き住む。二年の季春、薪尽き火滅す。行年六十二、嗚呼哀しい哉。」


 『大師入定説』 「空海年表」

  835 承和2 61才 
                 3.15. 諸弟子に遺告する
               3.21. 入定
               3.25. 仁明天皇、勅使を遣わし弔問
               5.10. 埋葬
  921 延喜21    10.27. 観賢の上奏により、醍醐天皇は空海に弘法大師の諡号を賜う

  『今昔物語』には、東寺長者であった観賢が霊廟を開いたという記述がある。これによると霊廟の空海は石室と厨子で二重に守られ坐っていたという。観賢は、一尺あまり伸びていた空海の蓬髪を剃り衣服や数珠の綻びを繕い整えた後、再び封印した。

  921年以後、前後して大師の御遺告(ごゆいごう)が4種類出る。
    『遺告二十五ヶ条』 『太政官符案並びに遺告』 『遺告真然大徳等』 『遺告諸弟子等』

 「吾、去天長九年十一月十二日より深く穀味を厭て専ら坐禅を好む。・・吾、生期幾ばくもあらじ。仁等、好しく住して慎みて教法を守れ。吾、永く山に帰らん。吾、入滅に擬するは明年三月二十一日寅の刻なり。諸の弟子等悲泣することなかれ。両部の三宝に帰住せば、自然に、我に代わって眷顧せられん。」(4種共通部分)

    『遺告二十五ヶ条』
 「吾が後生の弟子たるや、祖師吾が顔を見ずといえども、心有らん者は、必ず吾が名号を聞きて恩徳の由を知れ。是れ吾、白屍の上に更に人の労を欲するにあらず。密教の寿命を護り継いで龍華三会の庭に開かしむべきの謀りなり。吾れ閉眼の後には必ず方に兜卒他天に往生して弥勒慈尊の御前に侍るべし。五十六億余の後には必ず慈尊と共に下生し祇候して吾が先跡を問うべし。
     亦、未だ下らざる間は微雲管より見て信否を察すべし。・・・」

    『太政官符案並びに遺告』
    上の書の「吾れ閉眼」が「吾れ入定の後は」となっていて、初めて『入定(にゅうじょう)』の語があります。

    康保5年(968年)に仁海が著した『金剛峰寺建立修行縁起』で、入定した空海は四十九日を過ぎても容色に変化がなく髪や髭が伸び続けていたとされる。

 ★ここでも、「入滅説」「入定説」がでてくるのです。
   どうやら、わたしが以前から誰とはなく聞いていた「ミイラ」は、この「入滅説」ですね。ミイラになる詳しい方法(食事方法から滅するまで)も記述としてのこっているようです。

 ★ここに出てくる兜卒天という浄土は、弥勒菩薩信仰です。

  仏陀が入滅されたのち、将来仏となってこの世にあられれて法を説き、衆生を救う約束がなされているのが弥勒菩薩で、すでに将来仏となることが約束されていますので、菩薩ではなく「弥勒仏」ともいわれます。ただいま兜率天(とそつてん)において修行、思念中であるとされています。 しかし、その弥勒菩薩弥勒さまが救世仏として兜率天からこの世に出現するのは、釈迦の入滅後の56億7000万年後であるとされています。

  『下生経』
   四大海の水面各々減少すること三千由旬、その地(閻浮提)平浄にして瑠璃鏡の如し。花が咲き、高さ三十里の大木が繁茂する。人間の寿、八千四万歳、身の丈十六丈、智慧威徳をそなえ、快楽安穏にすごしている。飲食と排泄と老衰の三つだけが、この世界の病である。ここに翅頭末という大きな城がある。きわめて美しく、福徳の人々城中に満ちている。城付近の池に龍王が住み、夜々微雨を降らせるので道に埃がたたず、地面は砂金でおおわれている。この国は転輪王という王が治めている。その城中の、妙梵と梵摩波提という婆羅門の夫婦に、弥勒は生を託して生まれた。成長した弥勒は、世の五欲が患いをいたすことを感じ、出家して道を学び竜華菩提樹の下に座した。時に諸天龍神は華香を雨と降らせ三千世界はみな震動した。

  『観弥勒菩薩上生兜率天経』
   弥勒が兜率天に往生するとき、兜率天上には五百万億の天人がいて、補処の菩薩(弥勒の意)を供養するために五百万億の宝宮を作る。各々の宝宮には、七重の垣がありそれぞれは七宝で出来ている。その宝は光明を、光明は蓮華を、蓮華は七宝の樹を出し、五百億の天女は樹下に立って妙なる音楽を奏でる。五百億の龍王は、垣のまわりを巡って雨を降らせる。時にこの宮に牢度跋提という神があって、弥勒の為に善法堂を作ろうと発願すると額から自然に五百億の宝珠を出し、摩尼の光は宮中をめぐり化して四十九重(内院・外院四十九とはここから来ている)の宝宮となった。九億の天子、五百億の天女が生まれ、天楽おのずからなり、天女は歌舞し、その歌を聞くものは無上の道心を発する。兜率天に往生するものは、皆この天女に傅かれる。

  よく考えますと、お大師さんが兜卒天に行かれて、今この世界にお留守なら、どうも大師信仰に矛盾が出てきます。そこで、みんなが納得する考えは、高野山奥の院の奥のご廟にいまも住んでおられるという考えです。現に、高野山の諸寺でのお護摩は、諸仏に行われますが、奥の院では大師護摩を行います。こういう考えが、大師入定後200年には、日本中に定着していたようです。平安時代です。藤原の道長が信じていたという記事もあるそうです。今の高野山は道長寄進のお堂で復興したとか。白河上皇がたくさんの灯明を寄進され、今も「白河灯」があるわけです。今の金剛峰寺は秀吉の造とか。紀元1000年ころから、以来1000年間、私たちは、お大師さんが今も生きて高野山におられることを信じ続けているわけです。

  現実に、あのご廟の五輪塔の下が、どんな状況であるかは、誰も問題にはしません。毎日、二度の食事が届けられ、高野山の僧侶のみでなく信者、観光客に至るまで、ご奉仕・お接待もうしあげているわけです。

  「永遠なる大師」

 ★大師は、今も生きておられる。みんなのそばに居られるし、いまも四国遍路を続けておられる。過去から現在に至るまで、多くの人が実際にお大師さんと出会っているし、目撃や出現情報は数多くあります。

 これは、なんでしょう。多くの高野聖が、信長に殺された話は残っています。比叡山焼き討ちの次は高野山だったのですが、幸い光秀によって織田信長がいなくなっただけなのです。そんなことから考えますと、日本中に高野聖はいたでしょう。野山に谷に、お堂に。私たち衆生は、お参りのとき、大師と見間違わんばかりの深編み笠に墨染めの衣の大師?とあちこちで遭遇することになるのです。あの衛門三郎もまた、そんな旅の高野聖に出会ったのでしょうか。

 また、寝ていると眩いばかりの光の世界が広がって、どこからともなくお大師さまご本人が現れます。遍路は、いつも大師とともにあって、疑うことをしりません。

 遍路先で、民衆から遍路はお接待を受けます。遍路が、お大師さまなのです。

 あの高野山奥の院のご廟の裏には、今もお大師さんが居られます。時を越え、空間を越え、一体でなく同時に日本中のあらゆるところに出没されています。いまも、私の心の中に居られます。

 真言宗派の寺院の大師像は、すべて生身のお大師さまですね。これが、大師信仰です。

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