仏様のお供え
                    いつもの師、隆蓮房さまに教えていただきました。

  仏様のお供えと、お供えした後始末について、メールでご質問いただきました。
  でも、私も言われるまで特に何も考えないで、ありがとうございましたとごみばこに捨てていました。
  果物やお菓子は、あとでいただけますが、食事などのお供えは、「たべていただいたのだから」と
  捨てていました。

  私の村では、お盆の三日目のお供えの夕ご飯は、「賽の河原」といわれる場所にもって行って、
  他のお供えと共に「送り火」の横に供えます。

  そこで、普段の家やお寺での「後始末」について、師匠にお聞きした内容です。


  金剛末資 隆蓮房 誌す
 『 真言行者が修法の際に壇上に供えるお供物は、
  基本的には「閼伽(水)・塗香・華鬘・焼香・洗米・灯明」の六種です。

  前三種はいわゆる六器というもので、この中に水と樒(高野山では「しきび」と発音するのが習い)を並べます。

  焼香は抹香をいれた火舎という香炉に焼香をふりかけます。
  灯明は油(できれば胡麻油)を満たした器に火をともします。
  洗米は洗って乾かした米です。
        つまり、米以外は食物ではありません。

 特例として、総供といっていっぱい供養するときは「飯・汁・餅・果」、つまり順に炊いたご飯・小豆汁・餅・果物です。
 さらに盛儀のときや例外もありますが、省略します。

 壇上に捧げた供物は、「行者不食(ぎょうじゃふじき)」と言って、行者がお下がりを食べてはいけないことになっています。
 そこで、行中は鳥獣虫に施す(つまり外にまく)ということになります。(特殊な行では、土中に埋めるものもあります)

 高野山では、野うさぎや蛇などよく見かけるような場所ですから、そういった獣などの通りそうな場所に施します。

 しかし、都会などではそうはいきませんでしょう。そういう場合は、自分以外の誰かに食べてもらえるものは食べてもらい、
 そうでない場合は手を合わせて廃棄するしかないと思います。

 高野山は、塩・酒を修法の行われる壇上(密壇や大壇)に供えることはありません。
 奥之院などでお大師さまの前に塩・酒がお供えされているのを見かけると思いますが、
 それは在家の信者さんがお供えしたものだろうと思います。

 酒は、酒を好む尊の場合は私はお供えしますが(天部の尊など)、壇上ではないため、
 行者がお下がりを頂いてイケナイということはないはずです。
 それに、儀軌には「お下がりを行者が飲んでパワーを頂きなさい」と書いてあるものもあります。

 塩を供えるということは高野山ではまずないと思われます。
 古くなっていなければ頂き、適わぬならばやはり手を合わせて廃棄するしかないと思います。

 塩を供えるっていうのは、神道ですよね。
 塩って日本人にとっては清浄なもので、魔を払う奇しいもの。
 酒もそうですよね(だから酒の別名は「くし」)。
 神道では色々なものを神饌としてお供えしますが、塩と酒は代表選手です。

 対して仏教では、塩は薬として扱われていて、これを備蓄してよいかどうかが根本分裂の原因の一つになっています。
 酒はベーダでソーマ(不死・甘露)として出てきますが、原始仏教では禁止されましたよね。

 「酔う」のがダメだからです(仏教はbuddha目覚めた人になるための宗教だから)。
 ですから、灯明(智慧)と香(精進、それにこの香りをかぐことで意識がハッキリするというのが香の功徳の一つに
 掲げられている)が一番大事な供物です。

 あとは華。
 この三つが三具足

 しかし、密教では五摩の一つでタブーとされていた酒をたしなむことで、非日常の境地に達する。
 この非日常、神道でお神酒を戴く理由の一つですよね。
 神の供物を皆でいただく神そのものやそれを奉じる信者一同の連帯感(?)を得、そして酒に酔い日常を脱し神の境地に至る。

 多分、そういった酒をみんなでいただく宗教と言うのは多いのではないでしょうか。

 そこで、塩ですが。
 塩というのは、これをとらなければ死んでしまうほど大切なもので、血液の成分と類似しています。
 海は食塩水なわけですが、ここから生命は誕生した、まさに母です。

 それを得るために、我々は非常に苦労してきましたし、ゆえに塩の価値というものは非常に高く、
 国家で管理していた時代もありました(日本でも専 売公社ってのがつい最近までありましたよね)。

 ローマでは塩は給料として支払われた。
 サラリーマンのサラリーの語源はラテン語の「塩」ですから。
 日本では万葉集でも塩を造る情景が詠まれています。
 わが宮城県には「奥州一宮」があり、そこは「塩釜神社」といい、塩を造る釜を祭ったそうです。

 塩は神饌に欠かせないものであり、その関係から日本人なら仏さまにも塩を供えたくなってしまうのではないでしょうか?
 私は勉強不足なのでインドの宗教と塩の関係についてまだ知りません。
 でも、塩が生命にとって貴重なものであるからには、何らかのつながりがないわけがない。
 
 考察途中です。皆様の情報ご意見をお待ちいたしております。』

 とのことです」