浄土・仏土

多くのお寺をお参りしました。でも、残念ながら秘仏が多く、あまりお姿をみることができません。やはり、お参りすればその姿にお会いしたいものです。

偶像崇拝は、本来の仏教ではないとか聞いたことがあります。でも、誰でも目に見えるものが欲しいですよね。特に、自分で高まらねばならない宗教では、その心のよりどころが具体的に仏像であり、仏土なのかもしれませんね。


[仏国土]

「仏国土」はどこか。実は「倶舎論」の宇宙論には、「仏国土」はありません。

「倶舎論」の宇宙論では、仏はどこにいるのでしょうか。おそらく、無色界の さらに上にいるのです。古い須弥山図をみると、仏は無色界の上に描かれています。しかし、正しくは無色界と同様、仏の世界も空間を超越していると考えるべきでしょう。

「仏土」は大乗仏教において生まれた概念です。「倶舎論」では、仏は三界から脱出して無に帰しています。この完全に無に帰すること (無余涅槃むよねはん)が、小乗仏教のめざす最高の境地です。彼らにとっては、仏がまた形を有し、仏国土にあって活動するということは考えられないことです。

[浄土]

浄土の往生を説く教え。念仏によって、死後、浄土に往生し、仏果が得られると説くもの。 阿弥陀仏の西方極楽浄土、薬師如来の東方浄瑠璃(じょうるり)世界、弥勒菩薩の兜率天(とそつてん)など、諸々の他界浄土への信仰の総称です。

西暦紀元前後のインドでは、釈迦仏以外に多くの仏を想定する多仏思想や、一切衆生の救済をめざす菩薩行思想など、大乗仏教の教義の発展にともない、文学的構想の中に浄土信仰をおりこんだ大乗経典が続々と成立し、竜樹や世親が、これらをもとに浄土思想を体系づけていった。

大乗仏教では、仏たちは仏国土の建設をめざして修業し、仏国土を建設しおえたなら、迷える衆生(しゅじょう)をそこに導きいれるために永遠に活動を続けるのです。宇宙にはたくさんの仏がいて、それぞれ固有の国土を所有して、教化にあたっています。その国土は「仏土」とも「浄土」とも呼ばれます。

菩薩は成仏を目指して修行しています。その修行の成果は、彼が仏に成った時に住むことになる新世界=「仏国土」に反映されるわけです。 この「仏国土」こそ「浄土」に他ならないと一般に理解されていますが、実は「浄土」と云う観念は中国で形成されたものなのである。インドでは「仏国土」は想像されましたが、これは「浄土」ではないようです。仏国土を「pure land」と捉えたのは中国人の願望だったのでしょう。

この極楽の起源については、アフラ・マズダーやアメンテやエデンの園やエリューシオンやヴァルナやヴィシュヌやヤマや転輪聖王や北倶盧州や他化自在天や梵天や仏塔や…に結び付けて諸説紛々。定説は無いようです。また、釈迦如来がこの娑婆世界そのものを浄土としたように、浄土は三界の外とは限りません。

●阿弥陀如来の西方「極楽浄土」

●薬師如来の東方「浄瑠璃世界」は極楽と全く同じ作品。

●阿シュク如来の東方「妙喜世界」には極楽世界との比較は無いが、多くの類似点が、特に初期の極楽浄土との間に見受けられます。

●多宝如来は、「法華経」に東方「宝浄世界」の教主です。

●文殊菩薩は、大海と水滴の差くらいに極楽よりも優れた「浄土」を建設します。華厳経「入法界品」では善財童子が文殊菩薩に教えを請い、あらゆる人々を訪れる。法華経では文殊菩薩が竜宮で法華経を説き、八歳の龍女が成仏する女人成仏の教えを説いた。 文殊菩薩の浄土をこの娑婆世界の東北方の山中とする有名な神話 がある。山西省の五台山がその文殊菩薩の住処と考えられて霊場となっている。 また、東北方の親近感からか、清朝は「満洲」の語源を「曼殊」とした。 「曼殊」とは、勿論「文殊」と同じ原語の音写である。

●観音菩薩は、極楽の更に百億万倍優れた「補陀落山」(インドの南方海中にあるとされる)です。
     
●弥勒菩薩の浄土は、「兜率天」内院・[龍華浄土]とされる が、他の仏達の浄土とは違うようです。

●釈迦如来の「娑婆」(浄土というより、穢土)


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