西洋哲学の歴史的変遷

(1)哲学のはじまり
紀元前6世紀、古代ギリシア人によって、“最初の哲学”は産声(うぶごえ)を上げたのである。
神話は、①世界のなりたちを説き、②なぜ世界が今の姿をしているのか、③自然現象や出来事はなぜ起きるのか、④人間が存在する意味や理由は何か。⑤自分はどのような存在か、⑤どのように生きればいいのか、といった疑問に対する“答え”であった。
そんな中で、最初の時期における哲学は、自然を対象に、その本質を論理的に描き出そうとした。
古代ギリシアにおいて、哲学は、(1)世界の論理的な説明、(2)世界説明の“出発点”の置き換え
という特徴をもって始まった。

歴史・B.C.500 ソフィスト、ソクラテス。 | B.C.1500-- ウパニシャド
   B.C.400 プラトン              B.C.463  釈尊 誕生
                                  ジャイナ教
(2)B.C.400 プラトン
『イデア論』において、生成変化する物質界の背後には、永遠不変のイデアという理想的な範型があり、イデアこそが真の実在である。この世界は不完全な仮象の世界にすぎない。不完全な人間の感覚ではイデアを捉えることができず、イデアの認識は、かつてそれを神々と共に観想していた記憶を留めている不滅の魂が、その記憶を「想起」(anamnêsis、アナムネーシス)することによって近接することができるものであり、そんな魂が真実在としてのイデアの似姿(エイコン)に、かつての記憶を刺激されることによって、イデアに対する志向、愛・恋(erôs、エロース)が喚起されるのだとした。最高のイデアは「善のイデア」であり、存在と知識を超える最高原理であるとした。この世界・宇宙は、善なる製作者(デミウルゴス)たる神によって、永遠なるイデアを範型として模倣・制作したものである。

   B.C.350 アリストテレス、      | 仏教史   第一結集

(3)B.C.350 アリストテレス
「形相」および「質料」。「質料」(ヒュレー)と「形相」(エイドス)を対置して、内容、素材とそれを用いてつくられたかたちという対の概念を考えた。
「魂とは可能的に生命をもつ自然物体(肉体)の形相であらねばならぬ」と語る。ここで肉体は質料にあたり、魂は形相にあたる。なにものかでありうる質料は、形相による制約を受けてそのものとなる。万物が可能態から現実態への生成のうちにあり、質料をもたない純粋形相として最高の現実性を備えたものは、「神」(不動の動者)と呼ばれる。

   B.C.300 ヘレニズム哲学        |   第二結集
          エピクロス派         |  部派仏教
          ストア派
   A.D.1  イエス・キリスト         |  初期大乗仏典
         パウロ              |  インド六派哲学の発展
                            |  アビダルマ研究
   A.D.400 アウグスティヌス(教父哲学) |  ナーガルジュナ
                          鳩摩羅什、マイトレーヤ
                          説一切有部、唯識
   A.D.400 アウグスティヌス(教父哲学) |  アサンガ、ヴァスヴァンドゥー
                          
(4)A.D.400アウグスティヌス
人間の意志を非常に無力なものとみなし、神の恩寵なしには善をなしえないと考えた。時間意識(神は「永遠の現在」の中にあり、時間というのは被造物世界に固有のものであるというもの)。また神学者としては聖霊が父と子から発出することを、語り手・ことばによって伝えられる愛の類比などによって説いた。
    AD500 中観、唯識、
                           | AD600 経量瑜伽派
                           | AD700 瑜伽行中観派
                           | AD900 密教の隆盛
   A.D.1050  アンセルムス(実在論)  | A.D1100 チベット仏教

(5)A.D.1050アンセルムス
スコラ学の父と呼ばれる彼は神の存在と特性を理性によって捉えようとした。この立場は通常、理解できることや論証できることのみを信じる立場ではなく、また、信じることのみで足りるとする立場でもなく、信じているが故により深い理解を求める姿勢、あるいはより深く理解するために信じる姿勢であると解される。神の存在証明。神はそれ以上大きなものがないような存在である。神は人間の理解の内にあるだけではなく、実際に存在する。

   A.D.1050   ロスケリヌス(唯名論)
今日理解されているような唯名論の意味ではロスケリヌスは唯名論者ではない。しかし、最初に中世の実在論に挑んだ中世哲学者という位置に立っているために、彼は近代の先祖と呼ばれてきた。

(6)A.D..1000-1100 中世の普遍戦争
スコラ哲学において「普遍は存在するか」という問いをめぐって争われた哲学上・神学上の論争の一つである。実在論と唯名論
アンセルムスなどの実在論者は、普遍概念は存在するとし、何ものかが明らかでない個物の基体存在物に、例えば「人間」の形相が付与されることで、すなわち「人間の普遍概念」が基体存在に加わることで、簡単に云えば、「人間の具体的存在」すなわち「個物としての人間」が成立するとした。このように、類の概念、すなわち普遍概念が実在するとする考えを、「実念論」または「実在論 Realismus」と呼ぶ。「人類」という普遍者が存在し、それが人間の本質として前提されなければ、アダムの原罪もキリストの受難も個々の事実に過ぎず、人類全体の救済という普遍的な意味を持ち得ない。
これに対し、オッカムのウィリアムなどの唯名論者は、人間の類の概念、すなわち「人間の普遍概念」は形相的に実在するのではなく、古代のアリストテレスが考えたように、実在するのは具体的な個々の個物であるとした。「普遍概念」は、類を示す「名前(羅: nomen)」であり、名前は「言葉」として存在するが、類の概念、すなわち普遍概念としての形相的存在は実在しないとした。このような考えを「唯名論 Nominalisme 」と云う。

 (7)A.D.1250 トマス・アクィナス(スコラ哲学)(実在論)
トマスは、その哲学において、アリストテレスの「形相-質料」(forma-materia)と「現実態-可能態」の区別を受け入れる。しかし、トマスにとって、神は、万物の根源であるが、純粋形相ではあり得なかった。彼は、アリストテレスの存在に修正を加え、「存在-本質」(esse-essentia)を加えた。彼によれば、「存在」は「本質」を存在者とするため「現実態」であり、「本質」はそれだけで現実に存在できないため「可能態」である。「存在」はいかなるときにおいても「現実態」である。神は、自存する「存在そのもの」であり、純粋現実態である。
人間は、理性によって神の存在を認識できる(いわゆる宇宙論的証明)。しかし、有限である人間は無限である神の本質を認識することはできず、理性には限界がある。人間は神から「恩寵の光」と「栄光の光」を与えられることによって知性は成長し神を認識できるようになるが、生きている間は恩寵の光のみ与えられるので、人には信仰・愛・希望の導きが必要になる。人は死して初めて「栄光の光」を得て神の本質を完全に認識するものであり、真の幸福が得られるのである。
トマスは、存在論に基づく神中心主義と、理性と信仰に基づく人間中心主義の統合を図り、後世の存在論に多大な影響を与えることになった。

    A.D.1300 オッカム (唯名論)    |  A.D.1300 インド仏教滅亡

(8)オッカムのウィリアム
「信仰によってのみ人間は神学的真理に到達できる。神の道は理性に開かれていない、というのは神は何物にも縛られずに世界を創造することを選択して、人間の論理や合理性が物事から覆いを取るのに必要な法則に頼ることなくその世界での救済の方法を打ち立てるからである」と信じていた。オッカムの神論は、科学のみが発見の方法であり、科学のみが神を唯一の存在論的必然物とみなすことができると彼は信じていた。

(9)唯名論とは
個物を超越した普遍、本質、形相といったものではなく個物のみが存在するものであり、普遍は人間の心が個物を抽象して生み出したものであって心に外在する存在ではないという立場。
普遍は名前に過ぎない、つまり存在する実在物ではなくむしろ言葉に過ぎないと唯名論者が考えるのに対して概念論者は、普遍は心的な概念である、つまり名前は概念の名前であると考えるからである。ここで概念は心の中にのみであるが存在するものとみなされている。それゆえに、普遍概念は、人間の外部に存在する実在物ではなく、それ自体を理解することによって生まれ心の内で心がそれを帰するものを「前提」する内的表象としての対象を持つ。文の中で使われる言葉でもなく、実在物に対応する心的な代替物であり、反映の過程を表す術語である。このため、オッカムは唯名論者とも概念論者とも区別されて「記号論者」と呼ばれてきた。

(10)オッカムの剃刀
この格言は、ある仮定された存在がなくても現象を説明できるならば、その存在を仮定する理由がない、つまり、常に原因、要因、変数が可能な限り最小となる説明を選ぶべきだということを言っている。彼はこの原理を存在論的倹約に用いた。この原理によれば必要以上に存在を増やすべきでない。彼の存在論的倹約の要求によって導かれる彼の懐疑論は、人間の理性は魂の不滅性も神の存在、唯一性、無限性も証明できないということである。

   A.D.1500 モンテーニュ(モラリスト)
   A.D.1560 ベーコン(イギリス経験論)

   AD1500 イギリス経験論 ベーコン 1700 バークリー、1750ヒューム

  知覚―存在、感覚(知覚)のみが存在し、実体はない。
  因果関係は、経験(習慣)による思い込みである。

  実体、認識論
   プラトン 永遠不変のイデアこそが真の実在で、この世界は不完全な仮象の世界にすぎない。
   アリステレス 最高の現実性を備えたものは、「神」。魂とは自然物体(肉体)の形相
   デカルト 無限の実体は「神」。有限の実体は、精神と物体。
     人は、基本的な観念を生まれつき持っている。(大陸合理論)
        スピノザ、 ライプニッツ
   ロック  知識や観念は、すべて五感を通じて得た経験による。(イギリス経験論)
   ベーコン、バークリ・・形や重さも主観的な観念にすぎない。
   ヘーゲル 矛盾や反対の立場を受け入れ、統一していくと最終的に絶対知に行きつく。(弁証法)


   A.D.1600 ホッブス
         デカルト(大陸合理論)
   A.D.1615 パスカル(モラリスト)(啓蒙思想)
         ロック
   A.D.1700 モンテスキュー
   A.D.1710 ルソー
   A.D.1725 アダム・スミス(資本主義)
         カント(ドイツ観念論)


   A.D.1825 キルケゴール(実存主義)
         マルクス(社会主義)
   A.D.1850 ニーチェ(実存主義)
   A.D.1870 フロイト(精神分析)
         デューイ(プラグマティズム)
         ユング(精神分析)
   
  (11)A.D1900 ソシュール (構造言語学)
ソシュールは、言語を考察するに当たって、通時言語学/共時言語学、ラング/パロール、シニフィアン/シニフィエなどの二分法的な概念を用いた。
彼は、言語学を通時言語学と共時言語学に二分した。従来の比較言語学のように、言語の歴史的側面を扱うのが「通時言語学」である。それに対して、言語の共時的(非歴史的、静態的)な構造を扱のが「共時言語学」である。それまでのように言語の起源や歴史的推移を問題にするだけでなく、ある一時点における言語の内的な構造も研究対象にし、それによって言語を全的に理解しようとした。

ラングとパロール
共時言語学(記号論)においては、言語の社会的側面(ラング。語彙や文法など、社会に共有される言語上の約束事。コード)と言語の個人的側面(パロール、「今日は暑い」とか「私は鰻を食べたい」などといった個人的な言語の運用。メッセージ)に二分し、「ラング」を共時言語学の対象とした。

シーニュ、シニフィアンとシニフィエ
言語(ラング)は記号(シーニュfr:signe)の体系であるとした。ソシュールによれば、記号は、シニフィアン(たとえば、日本語の「イ・ヌ」という音の連鎖など)とシニフィエ(たとえば、「イヌ」という音の表す言葉の概念)が表裏一体となって結びついたものである。そして、このシニフィアンとシニフィエの結びつきは、恣意(しい)的なものである。つまり、「イヌ」という概念は、"Dog"(英語)というシニフィアンと結びついても、"Chien"(フランス語)というシニフィアンと結びついても、どちらでもよいということである。

二重分節
さらに、ソシュールは、音韻においても、概念においても、差異だけが意味を持ち、その言語独特の区切り方を行っていると主張する。音韻について言えば、たとえば日本語では、五十音で音を区切っている。そして、「ア」の音は、「ア」以外の音(イ、ウ、エ、オ、……)ではないものとして意味を持つ。そして、音の区別の仕方は、言語によって異なる。本来ならば、無限に分類できるさまざまな音を、有限数の音に分類する。そして、各言語の話者族は、それぞれ独自のやり方で(つまり、普遍的ではないやり方で)音を区分けしている。これは、"言語の音声面での恣意性"と表現される。
一方、音韻だけではなく、概念も言語によって区切られている。人間は、「シーニュ」という「概念の単位」によって、現実世界を切り分けているのである。そして、その切り分け方は、普遍的ではない。これは、それぞれの言語を話す人々は、どの差異を区別し、どの差異を無視するかということを恣意的に選択しているのである。そして、その選択がその言語に固有の語体系を作るのであり、その語体系は、その言語の話者族に、現実世界を与える。ソシュールは、この語体系の固有性を作り出す側面を"価値"と呼んでいる。価値は、話者族の恣意による。たとえば、英語のsheepとフランス語のmoutonは、意義は同じであるが、価値は異なる。ここにおいて、ソシュールは、「各民族語は、相互に異なる固有の世界像を持つ」という言語相対論を提唱した。
このように線引きの集まりを恣意的に作るという行為は、分節と呼ばれる。そして、人間は、「現実世界の認識の体系」と「言葉を構成する音の体系」という二つの体系を"分節"によって作りあげているのである。これを二重分節という。

  クロード・レヴィ=ストロースは、記号論的な考え方を文化人類学の領域に導入し、構造主義思想を確立した。そして、その影響は、20世紀の哲学、数学、精神分析学、文芸評論、マルクス主義思想、生物学にまで及んでいる。

  AD1900-1950 ルートヴィッヒ・ウィットゲンシュタイン
  前期・・語りえぬものは沈黙しなければならない。
      理論上確かめられないものを、言語にしようとするのは間違い。
      哲学の役割は、言語にできる命題とできない命題を分けることだ。
  後期・・日常言語から、科学的言語が体系化される。
      いくら日常言語を分析しても、それを扱う自分自身がその構造の中にあるので、その全
貌をとらえることができない。
      
  AD1950 レヴィストロース(構造主義)、フーコー
  人間の思考や行動はその根底にある社会的・文化的な構造に社杯されている。その差異が個人。

  A.D.1875 フッサール(現象学)――  AD1950ハイデッガー、サルトル(実存主義)
  世界は自分の主観の中にだけ存在している。

     ソシュール(構造言語学)――AD1950レヴィストロース(構造主義)、フーコー
  AD1850 フレーゲ(分析哲学)――― AD1925ラッセル、ウィットゲンシュタイン
  哲学の役割は、言語の意味を分析することだ。

  科学哲学・・ボバー、クーン   アメリカ
    矛盾のない記号のような厳密な言語を作ろうという考え。・・理論実証主義

  日常言語派・・ギルバートライル、ジョンLオースティン  イギリス
    日常言語から、哲学の問題を考えよう。