☆「遍路で何を得ましたか?」と聞かれて
前回、三度目の遍路をスタートしたとき、12番焼山寺の境内で、若者と談話しました。三度目だと話したら、お決まりの質問「どうして歩いてる?」「何か得るものがあったか。」
ふとですが、唐突に「そんなに歩いて、何か得るものがありましたか?」と尋ねられたのです。
一瞬、戸惑いました。
日常に、友人などに「どうして遍路に出てるのか?」と聞かれたとき、友人達は、「よっぽど悪いことをしたんだろう。」「お前は、一生詫びて回っても消えない罪業を背負っているんだ。」と茶化しながら言われます。
「違う!遍路は、出たいと思うから出るんだ。」「お大師さまに呼ばれたものだけが、出れるんだ。」と友人にはいいます。「お前達は、呼ばれることも無いかわいそうな人間なんだ。」なんてね。
今回は、違います。一人、静岡から遍路に出ようと志している若者が、何度か経験している知らないおじさんに、ふと真顔で聞くんです。
もちろん、誰にもいえない、(たぶんそうだろうと思われる理由がないわけではないのですが)、それぞれの人が背負っている理由が私もないわけではありません。
でも、改まって尋ねられると、また、その青年のこれからに対して、なにか得るものがある答えをしたくて、こう答えました。
「最初は、信仰系でした。でも今ではただただ歩くのがたのしいんです。」と。
答えてから、逆に考えました。はたして、本当はどうだろう。仏教に興味を持ち、ひたすら勉強して「知識」を増やし、経を読み、またその意味を理解しようとがんばり、毎日写経を続け、自分なりに身に着けようと「努力」してきました。
いつのまにか、「知識」や「努力」があまり価値を持たなくなってきました。そう、「繰り返し」の中に「意味」ではなく、「こころ」とでも言うのでしょうか、「よろこび」を感じることこそ、「生きる」本質なんだと思えるようになってきました。
そういう意味では、「たのしい」と言えた自分を褒めたいと思います。
そう。遍路で得たものというと、きっとそういうものなんだ。ただ歩く。見るもの、出会うものすべてをありがたいと思い、楽しく思い、ただただ歩く。望まない。求めない。あわてない。あせらない。ただ「心の欲するままに従う」。どこまで、できるかわかりませんが、今はそう思っています。
後日、彼から手紙が来ました。「メタボリックシンドローム」だそうです。まだ若いのですが、体の不安はすべての根底ですから、言いようのない心配ですよね。
お四国から戻り、(無事満願されたそうです)またアルバイト先を探しているようです。
私との出会いが、少しは役に立ったのでしょうか。元気に日常に暮らしていただきたいと願います。
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