☆地蔵様のリンが無い!

       発言者の了解を得ずにUPしています。ごめんなさい。登場人物は、お坊さんや在家の方です。
       すこし長いですが、顛末を読んでください。

 戻ってきたリンも輝くお地蔵様です。

散歩で  
  今朝も愛犬と散歩でしたが、昨日あった山のお地蔵さんの鈴がないんです。他の散歩の人に聞くと、すこし向こうの隣村の境のお地蔵も無いそうです。無念です。お灯明と線香はお供えしましたが。なんのために。どうして?周りを探しましたがありません。ちょっと沈んだ気持ちの朝でした。形あるものは、いつか消えるものですが。今度の休みまで無かったら、私が購入しようと思って帰ってきました。この寂しさは、なんでしょう。
piicatsさんへ
  鈴がない?何と悲しいことでしょう。
でも、ご利益がある、と言うことで、持っていかれた人がいるのかもしれませんね。
でもさびしいですね。
帰ってくるといいのですが・・・ちょっと無理かな。
是非鈴を奉納してあげてください。
聞いてください  
  いま夕方の犬の散歩から帰ってきました。先週お話した、村はずれの地蔵さんのりんを昨日購入して、今朝散歩の時に奉納したんです。すごく深い音がして、うれしかったんです。ちょっとわくわくして今散歩に行きました。すると、もうないんです。また誰かが持って帰ったのでしょうか。周りを必死に探しましたが、ありません。いたずらだとすると、許せません。涙が出てきました。ちょうど山の遊歩道の入り口で、散歩やハイキングの方が、みんな鳴らして拝んでいる村の地蔵さんなのです。何年もこんなことはなかったのに・・。
 やっぱり許さないといけませんか?!本当に許せません。これから、もう一度買いに行ってきます。そうしてお供えしてきます。許せません。悲しくて、悲しくて。
piicatsさんへ  
  お地蔵さんの盗難(?)は、同じ人物なのでしょうか?
目的は何なのでしょうか?一体どこに行ってしまったんでしょう?
でも、許してあげることが出来たらいいと思います。
・・・というか、憐れみですね。不チュウトウ戒を犯しているのですから。
それもお地蔵さん!きっと報いを受けるでしょう。無痴ゆえの行為です。
その無痴という煩悩を憎んで、人の方は憐れんであげて下さい。
とりあえず、行方不明のお地蔵さんに華を一輪捧げます。
お地蔵さん  
  初めに無くなった“お地蔵さんの鈴”は、誰かがお地蔵さんに下さるよう願いしたのでしょう。お地蔵さんは「こんな古い鈴でよければ差し上げますよ。どうぞどうぞ」といって差し上げたと思います。・・・・さすがお地蔵さん。
piicats様が、鈴が無くなったお地蔵さんを見て、お地蔵さんを気の毒に思ってわざわざ鈴を買ってきてお地蔵さんに差し上げたんですね。・・・すばらしい。
お地蔵さんはきっと嬉しかったでしょうね。
でも、また、piicats様が差し上げた“お地蔵様の鈴”をほしいと思う人が現れた。そしてお地蔵さんに鈴を下さいとお願いしたのでしょう。
お地蔵さんは、きっとこのように言ったでしょう。
「この鈴は、皆さんが私に下さったものですが、あなたがほしいなら喜んで差し上げましょう。この鈴も、この鈴を作った人も、この鈴を売った人も、買って私に下さった人も、そしてあなたも、あなたの鈴の音を聴く人も、この鈴に関わった人がみんな喜んでくださるのです。私は皆さんに喜んでいただけるように、安心していただけるように、ここにいるのですよ。いつでもまた来てね」・・・・・ さすが!さすが!お地蔵さん。
piicats様、善いことをしましたね。生まれてきた甲斐がありましたね。良かった。良かった。
合掌。
それでも  
  昨日夕刻、近くのお店に行きました。憤慨のままに。そうしたら、あとひとつ残っていたはずのリンが売れていて無いのです。お店の方に在庫はないのか尋ねましたら、金曜日しか入荷しないとのこと。とぼとぼ帰る道すがら、なんとか**さんのおっしゃる気持ちになりました。そこで、私がお四国に持参している「持ち鈴」を今朝、お地蔵さんに持って行きました。さてさてどうなっているでしょうか。人に聞きますと、リンは真鍮製で高価です。きっとアルミ回収の人が、高価引取りを期待して持っていくのだろうと。実は、あたらしいリンには、梵字でお地蔵さまと大日様の文字を書き、奉納と書きました。少しもの抑止力になったらと。信仰のない人には、効果がなかったようです。ただただ、寂しくて・・。また、私の「人への不信」観がよみがえります。私の仏教への方向は、実はこの人間不信からなのです。いくら信じても信じきれない人間。このやっかいなもの。いま、伊藤古鑑師の「お地蔵さま」(春秋社)を読んでいます。お地蔵様は、裏切りません。仏様を信じます。何度でも、リンをお供えしたいと思います。人間(自分を含めて)、なんてやっかいなものなのでしょうね。
piicats先生へ  
  悲しいことがありましたね。でもお地蔵様にはちゃんと先生のお気持ちが届いていると思いますよ。先生のお地蔵様の奉納のお気持ちとても嬉しかったと思いますよ。
確かにリンは大切なものですし、とてもありがたいお道具ですよね。
人の真心を踏みにじるような方は悲しいですね。
リンはお地蔵様がその方にあげたのかもしれません。
いつかそのリンを持って帰った人もきっと気づくときがくると思います。
衛門三郎さんもいつか気づき懺悔しましたね。
先生、悔しいですがそれまで大きな心で。

piicatsさんへ  
  そうですね。実に悲しいことです。
チュウトウというのは仏教的には重い罪ですから、
相応の報いをどこかでその方は受けなければいけない。
それとも、もしかしたら、衛門三郎のように懺悔するときがくるかもしれない。
しかし・・・・・。
お地蔵さんは怒っていないと思いますよ。憐れんでいると思います。
そして、piicatsさんの布施を喜んでおられる・・・・・。
功徳を積んでいらっしゃるのだから、憤慨はしないで下さい。
罪を憎んで、人を憎まず、です。
それでも、やっぱり  
  お地蔵さんはpiicatsさんからいただいた“おりん”を、アルミ回収屋さんに、お布施しちゃったんですね。
アルミ回収屋さん(リサイクル屋さん?)のご家族の喜ぶお顔が眼に浮かびますね。
リサイクル屋さんから、お取引の商人や、鉄鋼屋さんに行き、製造工場に行き、運送屋さんに行き、紙やプラスチックやダンボールに包まれて、お店屋さんか、機械屋さんに行き、また何か製品になって、お役に立つ。こうして、お地蔵さんから別な形になるまでには、何十万人の人に関わることになるのです。
お地蔵さんも考えましたねえ。
せっかくpiicatsさんからお布施していただいたものを、リサイクル屋さんにお布施していいものだろうかな?
お地蔵さんの前で、皆さんの心の支えになるのもよいことです。
piicatsさんは、そのためにお布施されたに違いない。
しかし、このリサイクル屋さんはこの“おりん”がほしいという。
お地蔵さんは“piicatsさんからのお布施のおりん”をたくさんの人のお役にたつように、リサイクル屋さんにお布施することにしました。
  さすが!さすが!  お地蔵さんは偉い。
お布施、お布施、といいましたが、お布施について説明するときは、私はいつも皆さんに次のように言ってケム二マイテマス。
『あなた方は、毎日お布施していますよ。スーパーに買い物に行くでしょう。あなたが買い物することによって、たくさんの方が助かっているのです。衣、食、住、たった一つの人参を買っても立派なお布施です。農家の方も、そのご家族も、肥料屋さんも、農機具屋さんも、ビニール屋さんも、運送屋さんも、お店屋さんも、税理士さんも、パソコン屋さんも、などなど数え切れない人が、一本の人参をあなたが買ったくれたことによって収入になって助かるのです。
だから、あなたは毎日寝ても醒めても、お布施をしているのですよ。
あなたの生活そのものがお布施なんですよ。
でも、よく考えてごらんなさい。
みんな、あなたが、生きるためにしていることなんですね。
ですから、お布施は、人にものをあげることではなくて、あなた自身のためにしていることなんですね。
簡単に言うと、あなたが、生きることが、お布施なんです。
お布施には、ものでするお布施『財施』と、行いでする『無財施』があります。
(やさしい眼で見る、にっこり笑う、やさしい言葉でいう、身体でお手伝いしてあげる、同情してあげる、休ませてあげる、住まわせてあげる)・・・無財の七施・・
ながくなりますから以下省略します。』
要は『piicats先生が、お地蔵さんにすばらしいお布施をし、お地蔵さんは、それをまた何十倍のお布施にしてくださった』という、すばらしいお話でした。 合掌。
ありがとうございます。  
  思い出しました。安部公房という実存主義の作家のエッセイに「公園はみんなのもの」と警官が浮浪者を追い出そうとしたとき、「じゃあ、俺はみんなじゃないのか?」ってね。
幼い頃、村のお墓に予科練くずれの浮浪者が住んでいました、村の人はお墓のお供えに、「あの予科練のためにも、ご飯をお供えするんだよ。」って言ってたのを思い出しました。十善戒は、人と人の関係についての戒めですよね。仏の足元で、私たち一人一人が持つ心構えを説かれてるんですよね。仏にお供えしたものは、その思いを持っただけで受けてもらっていますよね。ははは、愉快です。こうして、皆さんに教えてもらうのは、とてもうれしいです。
 今日、実は「もう私には捧げるものは、なにもありません。命だけです。」というウサギさんの言葉を思い出していました。いやあ、私にはまだ少しの財施とたっぷりの無財の七施を持ち合わせているつもりです。ありがとうございます。これからも、ずっとお導きください。 拝
不偸盗  
  道端のお地蔵さまに差し上げたものは誰のものでしょう。
誰かが、道端のお地蔵に、お布施したものを、必要な人が、お地蔵さんにお願いして、いただいたら、法律的に、道徳的に、仏教的に盗み(偸盗)になるのでしょうか。???・
顛末記  
  今、帰宅しました。すこし詳細を報告します。
今朝いつものように散歩にいきましたら、昨日奉納した四国巡礼の持ち鈴はありました。ちょっとほっとして帰宅。朝8時に警察から電話で、最近お寺に金の杯を奉納しましたか?なんだ?それは、リンですよ。なんてやり取りをしました。確認のため、家に行っていいかというので、待っていましたら、なんとパトカーに犯人まで乗せて3人のおまわりさん。ダンボールにがらがらと、花台やら線香立て、蝋燭立てまでいっぱいでした。唯一手がかりが私が奉納したリンに「奉納堺市**苗字」を書いていたのです。それは、名前を書いていたら再犯の抑止力になればと書いたものでした。地蔵さんと大日様の梵字も。今朝6時ごろ近くの店の駐車場で、ごそごそ車の荷物を整理していた犯人を不審尋問した警察官が捕まえたそうです。少し困ってしまいました。奉納したのですから、もちろん私のものではないのですが、お地蔵さんも個人所有ではありません。警官が是非被害届けを書いてくれというので、これを契機に発心してもらえればと思い協力しました。やはり、罰は受けてほしいと思いました。その上で、仏を敬ってもらいたい。家人は、逆恨みが怖いといいます。でも、そうでないことを祈ります。なにはともあれ、リンが戻ってきました。以前のまっくろなのも。向こうのお地蔵さんのも。ははは、3つです。よかった。
 それにしても、やっぱりお地蔵さんの霊験を感じます。私の思いだけでなく、毎朝手を合わせている多くの方の思いが通じたのだと思います。よかった、よかった。
なんと!  
  そうですか。みつかりましたか、犯人!
ええと、法律的にはですね、
奉納されたものですから、piicatsさんの所有物ではなく、
お地蔵さんの所有者のものとなるそうです。
立派な窃盗容疑ですね。
さて、仏教的には、与えられざるものを盗ったのですから不偸盗戒に抵触します。
不偸盗戒は、厳密に言うと「あげますよ」と言われたとしても、手渡しで受け取ら
なければダメなのだそうです、置いとくから、どうぞ勝手に持っていってください、
というのはダメなんだそうですよ。
でも、確かにすごい結末ですね。一件落着。
かわいそう。  
  ジャンバルジャンでは有りませんが、よき指導者がいれば、その方も、改心して、世のため、他人のためにお役に立てる生き方をすることが出来るでしょう。
法律で裁くことになるのですね。かわいそうに。
仏門に入れてあげたいですね。合掌。
リン、最終章  
  いま、警察にリンをもらいに行ってきました。以前のもあわせて3っつ。聞きますと、専門の窃盗常習犯。でも誰も被害届けを出さない、そして高価買取の智恵者のようです。真鍮は、1kgで400円なんですって。2日の拘置できついおしかりですむとか。訴えますかと聞かれて、「リンが戻っただけでいいです。」と罰を望まない旨をいいました。懲りてくれればいいのですが。発見したものを全部元に戻させたとおっしゃっていました。「やっぱり、バチがあたったんだ。」とおまわりさんたちも言っていました。いま、ボールに酢を薄めてリンをつけています。古いものも、きっと明日には金ピカになっているでしょう。明日の散歩で戻してきます。きっとみなさん、喜んで下さるだろうと、わくわくしています。
 地蔵さまの所有者はもういないそうです。町のもの。だから犯罪は成立しにくいとのことでした。とにかく、よかった、よかった。一件落着!

お地蔵さんのリンの話。事実は小説より奇なり。すごい結末で興奮が冷めませんよ。リンは警察から返してもらいました。翌朝もとの場所に戻しました。警察も一つずつ各村の地蔵さんや神社をまわるそうで、大変ですよ。
罰ってなんでしょうね。でも、法律と心の戒律とは違いますよね。すべての人間の三毒に、おそれおののいています。
お導きください。南無大師遍照金剛

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