倶舎論(くしゃろん)

阿毘達磨倶舎論 (あびだつまくしゃろん)   フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia) 』  

 インドの仏教論書であり、世親(バスバンドゥ、5世紀ころの人)の著作。略称を『倶舎論』といい、「倶舎」とは容れ物(蔵)という意味で、「阿毘達磨」の教理のすべてがこの中に納められているという意味。「阿毘達磨」(abhidharma)は、「abhi+dharma」であり、それぞれ「対」と「法」と訳され、「ダルマに関して」という意味となる。サンスクリット本、チベット訳、漢訳2種が現存している。漢訳では、真諦訳22巻(564年)、玄奘訳30巻(651年)があり、おもに玄奘訳が用いられる。
 説一切有部の『発智論』『大毘婆沙論(婆沙論)』の説を中心に他部派の説も加えて、仏教哲学の基本的問題を整理したもの。600の偈文と、その注釈の散文で出来ている。

  1. 界品(かいぼん) 存在の種類
  2. 根品(こんぼん) 存在現象の活動
  3. 世間品(せけんぼん) 世界の構成
  4. 業品(ごうぼん) 有情(うじょう)の輪廻(りんね)の原因となる(ごう)
  5. 睡眠品(ずいめんぼん) 有情の煩悩(ぼんのう)
  6. 賢聖品(けんしょうぼん) さとりの段階
  7. 智品(ちぼん) 智慧(ちえ)
  8. 定品(じょうぼん) 禅定(ぜんじょう)
  9. 破我品(はがぼん)

 界・根品で基礎的範疇を説明し、世間・業・随眠品で迷いの世界を解明し、賢聖・智・定品で悟りに至る道を説く。最後に付録の破我品で異説を論破する。説一切有部の行き過ぎた教理に対して、経量部の立場から批判が加えられている部分がある点に特色がある。
 古来、仏教学の基礎として広く研究され、本書にもとづいて日本では「倶舎宗」が成立した。


「説一切有部(せついっさいうぶ)」  「坊主めくり」 お知恵を拝借しました。
                    http://www7.ocn.ne.jp/~priest.1/sisou/kangaku02sisou04.htm

アビダルマ論書の代表作「アビダルマ・コーシャ」
漢訳名を「阿毘達摩倶舎論(あびだつまくしゃろん)」(倶舎論)です。
ヴァスバンドゥ(世親・せしん)と言う僧侶は、仏教思想史の中では
五本の指に入る偉大な思想家です

[初期]
お釈迦さんが生きていた当時の仏教や原始仏教教団に於いては
『人生の苦しみを滅するためにどのように考え、いか行動するべきか』

お釈迦さん在世当時からの伝統的な自他を含む世界の説明方法は

『煩悩に支配されてる状態を有為(うい)と言い業と煩悩の世界を有漏(うろ)と呼びます』逆に『煩悩の汚れが無い状態を無為(むい)と言いさとりの領域を無漏(むろ)』として有為から無為に至るため、言い換えれば悟りを開く為に身体と心を制御していく実践を行いますが、実践を行うには、心と身体の関係を学ばなければ具体的な行動に移れません

そこで身体や物質といったモノと心や意識といったモノがどういう具合に存在しているかを把握をする為に

三つの説明が行われました


(1)五蘊(ごうん)

・色(しき)  広く物質的なモノ全般
・受(じゅ)  感覚を通して感受する作用
・相(そう)  認識したモノを識別する作用
・行(ぎょう) 行動などをおこす意志の作用 
・識(しき)  経験に照らして認識する作用

(2)十二処(じゅうにしょ)

心の働きが起こる為の拠り所

感覚器官であり機能  覚知される対象
主観の側の六根    客観の側の六境
      (ろっこん)          (ろっきょう)

 眼(げん) →      色(しき)
 耳(に)   →     声(しょう)
 鼻(び)   →     香(こう)
 舌(ぜつ)  →     味(み)
 身(しん)  →     触(そく)
 意(い)   →     法(ほう)

(3)十八界(じゅうはちかい)

上記の六根と六処、感覚機関と対象現象に
認識の主観を組み合わせたモノ

眼識(げんしき) 眼根を拠り所として色境を認識

耳識(にしき)   耳根を拠り所として声境を認識

鼻識(びしき)   鼻根を拠り所として香境を認識

舌識(ぜっしき)  舌根を拠り所として味境を認識

身識(しんしき)  身根を拠り所として触境を認識

意識(いしき)   意根を拠り所として法境を認識


五蘊・十二処・十八界の三つの分類によって自他を含む、この世の中の全て
一切法(いっさいほう)を表しました。

(法とは一般的に仏教の教えを指しますが仏教哲学に於いて法・ダルマは
存在全般を指す意味で使用されるので要注意)

五蘊・十二処・十八界は相互に関係しているので

心と身体を認識して個々に考察を加えていくことによって

あらゆるモノは常駐不変ではなく、無常である
あらゆるモノは苦を生み出す元になり
あらゆるモノに自立的な魂や我はなく無我である

と言った仏教の真理を理解していった訳ですが

初期の仏教は身心の考察が大まかであり感覚作用と意識の関連や作用などの定義は
曖昧でしたし、自分を取り巻く世界観などにはあまり重点を置きませんでした。


[部派仏教の時代]

・この世界の成り立ちはどうなっているのか?
・物質の極小の単位は何か?
・物と心の関係はどうなっているのか?
・認識をする主体や意識の流れはどうなってるのか?
・原因と結果には因果関係がホントにあるの?
・時間の最小単位はどこか?

と言った具合に、世界と自分の関わりについて考察を法(ダルマ)を以て説明を
深めていく傾向が顕著になってきます。

(1)五位七十五法(ごいしちじゅうごほう)
法(ダルマ)=存在するものを・有為(うい)…煩悩によって汚れたモノ
                   ・無為(むい)…煩悩の汚れが無いモノ
             の二点に大別してから有為に四位を配当する

   有為の四位
         1・色…物質的現象=十一種類
          (しき)
                眼・耳・鼻・舌・身=五つの感覚器官
                色・声・香・味・触=五つの対象
                無表色(業)=表象的には表れないモノ

         2・心…心の本体=一種類= 心そのもの
          (しん)

         3・心所…さまざまな心作用=四十六種類
          (しんじょ)
               善の動き、悪の動き、どちらでもない心の動き、
               根本的な煩悩、付随する煩悩、常駐する心の動き
               特殊な対象に反応する動きなど心にともなう行い

         4・心不相応行…心でも物資でもないもの=十四種類
           (しんふそうおうぎょう)=特に心と相伴わない行い

   無為の一位
         5・無為…煩悩の汚れが無いモノ=三種類
          (むい)=空間や涅槃の境地など

   五位の下に、それぞれの作用や対象を七十五種類配して全存在の説明を行う
   
(2)六因・四縁・五果(ろくいん・しえん・ごか)

   原因の種類を分類したものが六因
              能作・倶有・相応・同類・遍行・意熟
              のうさ・くう・そうおう・どうるい・へんぎょう・いじゅく

  原因に対しての条件のあり方が四縁
             増上縁・等無間縁・所縁縁・因縁
             ぞうじょうえん・とうむけんねん・しょえんねん・いんねん

  結果の現れ方が五果
            増上果・士用果・等流果・異熟果・離繁果
            ぞうじょうか・じゆうか・とうるか・いじゅくか・りけか

   因果の関係を上記の組み合わせで分類する
             直接的な関係、間接的な関係、連続する関係
             積極的な関係、消極的な関係、反発する関係
             どちらでもないが特に邪魔もしない関係、
             直ぐに表れるのか、時間を置いて表れるかなど


(3)三界・五趣・四生(さんがい・ごしゅ・ししょう)
    仏教の世界観と生物の生まれ方の違いなどに関する説明、またその種類など
       
            見道・修道・無学道(けんどう・しゅどう・むがくどう)
            四向・四果(しこう・しか) 

(4)器世間・有情(きせけん・うじょう)

(5)表業・無表業(ひょうごう・むひょうごう)

(6)十善・十不善業(じゅうぜん・じゅうふぜんごう)

(7)九十八随眠(きゅうじゅうはちずいめん)
   人間の根本的な煩悩を六つに分類しそこから九十八種類に展開

(8)見道・修道・無学道(けんどう・しゅどう・むがくどう)

(9)四向・四果(しこう・しか)

(10)三世実有法体恒有(さんぜじつうほったいごうう)
存在の基盤であり一貫性をもった全ての要素である法(ダルマ)は実体であり
過去・現在・未来の三世に於いて存在する。つまり、ダルマという法則は永遠に存在するモノで
その枠の中で全てが行われていると考え、原因と条件に依って生じる個々の事象は無常だが
それらの事象を成立させる構成要素ダルマという枠組みは有るとしました

究極的には一切が有ると言い、外部対象は真実として成立すると認めると言った具合に、
更に細かくなり説一切有部が誕生。


[心相続(しんそうぞく)]

輪廻思想に対しては、刹那滅(せつなめつ)による心相続(しんそうぞく)と言う理論を編み出しました

刹那とはサンスクリットのクシャナを漢訳したもので時間の最小単位、時間の原子と言った意味ですが

『曰く、我々の心と言うモノは原因に依って生じてから一刹那で生滅する瞬間のモノだが
もちろんそれで終わりでは無くその直後に前の心とは、ほんの少し違うがほとんど同じ心
が生じ、また生滅してまた生まれると言った繰り返しをしている行為を行ったコトによって
作られる業は一刹那から次の一刹那に引き継がれる』

つまり不変の個人ではなく刻々と変化しながら相続を繰り返していく心の連続体、
非連続の連続こそが心相続であり輪廻を繰り返す主体であるとして永遠不変の魂
や真の自我といったモノは無いとしました


しかし、有部の見解では刹那ごとに生ずる心の方向性を定める根拠を想定しなかったので
この世の中の要素や原理までもが刹那滅で変化していくモノだと世界は自己同一性や
一貫性を欠いたモノになってしまいます

その為に、三世実有法体恒有(さんぜじつうほったいごうう)を提唱したので、
仏教の根本であるところの諸行無常・諸法無我と矛盾するものとなりました。

これに関して倶舎論を書いたヴァスバンドゥは、経量部の見解である
相続転変差別(そうぞくてんぺんしゃべつ)と言う理論がでてきました。

『曰く、心は刹那滅であっても行為の影響は、潜在的に種子(しゅうじ)として残留する
心の中に、この種子が植え付けられるコトを薫習(くんじゅう)と言う。』

すなわち次の瞬間に生ずる心を決定づけるのは、前の心によって植え付けられた種子によって
決定される。種子が変化発現することで次の心を生じる(現成・げんじょう)

薫習→種子→転変→現成

種をまき、種が変化し、実を生じ、また種をまく種子の影響は繰り返しをしながらも
永遠不変なモノでは無いので諸行無常には抵触しないとして、経量部の見解で
有部の穴を埋めました

要約すれば、我々の身体や心などは一瞬一瞬に変化をしながらも全く異質なモノにならないのは
種子と言う行為の残影が心に植え付けられる事により自己同一性を保持しているからで
瞬間的には非連続的なモノでありながら種子の力によって方向付けられ連続している。
しかし永遠不変ではない。

つまり、非連続の連続を方向付けるのは
業(ごう)…行為の潜在力・残影であり、永遠に存在するような法(ダルマ)では無い
それは種子という形で引き継がれていく。

単体としては瞬間のモノが連属する事によってあたかも、そこに実体があるかの様に見える。
しかし本質は、瞬間の集まりが一定の性質や条件に従って寄り集まっているだけである。
連続に見えても永遠ではないから、諸行無常であると考えます。

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