入院日記2   2023年10月14日から入院
                                                 2023-10-14~2024-1-13
過去の体験1. 

 もう30年も前の話になりますが、定時制高校に勤務していて、子供たちの夏休みも私は毎日働いていて、どこか連れて行ってあげたいと思っていました。ふと思い立って、家に連絡し、夜中に帰宅してそのままワゴン車で奥飛騨までドライブです。まだ若かったから、一睡もしなくても大丈夫。子供たちは、後部座席をフラットにして寝ます。
 夜半に乗鞍岳の星を子供たちに見せたくて走ったのですが、頂上への入り口は時間規制もあって上れない。さらにガスがかかって来て、満天の星を見せられませんでした。で、24時間やっている奥飛騨のドライブウェイ温泉にはいりに。はは一睡もしていませんね。さらに、新穂高のロープウェイに乗るために、駐車場に向かいます。始発まで駐車場で仮眠するつもり。
 駐車場に到着と同時に、激しい嘔吐、強烈な下痢。それが10分おき。8分おき、5分おき。治まる気配がなくて、とうとう妻に救急車の要請を。そこから飛騨市の病院に搬送されました。救急車もかなりの距離を走ったような?!後ろを妻が車で追走。だんだん嘔吐の時間が短くなってきて、そのうち記憶があいまいに。かすかに病院の処置ベットで麻酔を打ってもらったのは覚えています。数時間後に、痛みもなくなって意識もはっきりしてきました。今夜は入院ですと言われて、困ったのは子供たちです。
 ありったけの現金を渡して、まだ中学生になったばかりの長男に下の二人の妹を連れて大阪まで帰らせることにしました。
 まあ幼いときから一人で電車やバスに乗れる子でしたが、今から考えたら凄いことですね。石炭ストーブ列車で富山駅に行って、そこから特急サンダーバードで子供たち3人だけで帰りました。もうみんな40歳過ぎていますが、長男の事を今でも妹たちは絶対的に信頼しています。はは、今でもみんな集まったら毎回その時の思い出話ですよ。
 私は、一泊してケロッと回復。良く寝たし、決して運転しないようにと言われましたが、飛騨から大阪の自宅まで運転して帰りました。その時の診断で、病名は「急性胃腸不全」?!聞かない病名です。胃腸の動きが急に停止して、車のセルのように痙攣をおこさせて復活させようとしていたようです。まあなんとか動き出したようです。「これが心臓だったら、急性心不全で即死でしたよ!」とお医者さんに言われました。

過去の体験2.   piicats.net/nyuin.html

   2013年10月31日お昼前。実は7月に亡母の49日法要の頃でした。長男から連絡があって、物がたてに二重に見えるんで近くの病院に行ったら、すぐに大病院に行くようにと。検査したら脳腫瘍と。すぐに手術です。そして3か月間の放射線治療。ああ、今日で息子の放射線治療が最後の日だ。あとで、息子に慰労の電話をしようなんて思いながら、裏やぶの竹を切って枝を払いその枝を竹やぶに差し込んでいく作業をしていました。急斜面で、7段の脚立に両手いっぱいの枝を抱けて、足だけで上って差し込みます。薮ですからその作業を竹何十本と繰り返します。あ、っと思った瞬間7段目約2mからそのまま転落していました。
 すぐ先に携帯をおいていたのですが、身動きができません。声は出ましたので、おーいおーいと家にいる妻を呼び続けて30分ほど後に発見してもらい、救急車もなんだからと車で近くの病院。まだ何も分かっていなかったので、無意識に動けました。で、それからは大事で翌朝その病院からERに救急搬送。4週間でまたその病院に戻って、さらに1週間。付き添った看護師さんが、「もう二度と会えないと思っていました。良く戻ってこられましたね。」と言われたとき、また命長らえたと実感しました。肝臓破裂、右肺破裂肋骨前後で4本骨折かひび。最近見つかったのですが、第8胸椎骨折。幸い頭は打っていませんでした。

今回の経緯

 私、37歳から毎年人間ドックを受けています。まあ現職の時は受診義務がありました。20年前には直腸ポリープが便潜血で見つかって、内視鏡で取りました。幸い一個だけでかいのがあったのです。以後はまったくできません。
 2022年10月のドックで、胃の上部に小さなできものが見つかった。バリューㇺで。かかりつけ医にも見てもらって、様子を見ようと。すぐに取るほどの大きさでもないようです。

 2023年7月今年度のドックで、すぐに精密検査するようにと言われ、かかりつけ医に結果を見せたら、即刻大病院に紹介状を書いてくれて、9月始めに胃カメラ、CT、血液検査。消化器内科から外科に回って、造影CT、入院・手術予約。

 10月14日入院、16日手術予定になりました。でも、ばたばたしても発見から2か月後ですよね。なんだかねえ。その間にも進行しているはずですよね。いまのところ自覚症状はありませんが、やっぱり病気だと言われたら、体調不良になりますね。
 胃の上部に5-6センチ大の腫瘍。進行性で、周りのリンパ節に5か所転移?大きさもあってステージⅢですって。担当医の判断で胃の全摘。ただ、造影CTで判明したのは、胃と肝臓を繋ぐ大きな静脈に、かなりデカい瘤が見つかりました。お医者さんの話では、以前の肝臓破裂の時にカテーテル手術で止血したのが要因かと。さて、胃がんの摘出手術もさることながら、静脈瘤の撤去手術の方がかなりのハイリスクだそうです。大量出血も予想され、また胃の粘膜との癒着もあるかと。脾臓も膨大にふくれていて、開腹してからそれも取るかどうか見るんだそうです。

 いろいろ勝手に調べたら、20-30センチ切腹みたいですね。とほ。それでも術後二日目から座位で過ごすんですって。上手くいったら2週間くらいの入院だそうです。まあその後の過ごし方や、食事などは何もわかりませんが、後は妻に任せます。
 いろんな資料をみたら、胃がんのステージⅢだと術後5年以上の生存率は30-40%だそうです。今のところ、造影CTで他の臓器や骨への転移は無しだそうです。術後1年かけて、抗がん剤治療をしましょうと。何時どこで転移再発するか分かりませんが、ここまできたらお医者さんに任せるしかありません。

今回の家族の様子

 ・・前回は突然の事故で、ERとはどんなところかも分からなかったようですが、35日間は長かったようです。ERでは、家族がみんな寄るほどのものでした。始めの2週間ほどは、気楽でいいと言いながら、だんだん心細くなったとか。今回は覚悟しているようです。面会はできませんがLINEがあるので毎日の様子が分かりますし、担当の先生が電話をくれますからその分不安はないですね。

 長男・・彼は、10年前に脳腫瘍で覚悟した経験者ですから、いろいろ知識も体験もあるので、いろいろ助言をしてくれています。思えば、10年前彼が仮面をかぶって放射線治療を3か月受けて、その終了日に私がひん死の重傷になったのです。また今回、ちょうど10年経って、医師から治療終了の許可が下りたそのタイミングで、私の重病が見つかったわけです。受け取りかたですが、彼の今後の人生のリスクを私が引き受けたとみれば、それはそれでいいかとも思います。子供を授かって、初めて高熱でぐったりしている我が子を前に、叶うならこの子の苦痛をすべて私が受けます。どうか、無事に回復しますようにと祈ったのを思い出します。その時、神様と契約したんでしょうね。それなら、それでよいですね。

 まだまだ孫たちも幼いですから、彼には元気に暮らしてもらいたいものです。いつのころからか、子供への親の責任感から、老人として子供に頼る時期が来ましたね。全ての判断や処理は、彼の思うように彼の判断に任せます。今回も、外科の診察にも立ち合いたかったようですが、仕事の都合もあり、長女が同席してくれました。それでも午後休暇を取って夕方様子を伺いに来てくれました。
 二人の孫は、少し前に顔を見せてくれました。上の子は中学生で、LINEで繋がっています。お見舞いのメールをくれました。

 長女・・彼女は治験薬剤師でしたから、いろんな患者も見ているし知識もあります。外科医の症状や手術の説明を同席して聞いてくれました。兄弟たちにも正確に報告してくれますね。
 二人の孫は、一番小さいのですが、下の子は学校でも思い出して泣いてくれているらしいです。申しわけないな。上の子はポーカーフェイスですが、心根の優しい子ですから思うところは深そうです。3年前、ロンドンに出発する時、空港で入口から入るとき何度も振り返って見えなくなるまで手を振ってくれていたのを思い出します。2年後帰国した時、恥ずかしさでハグしてくれませんでしたが。思春期です。

 次女・・愛知に住んでいるために、暫く会っていませんが、LINEではやりとりをしています。ただ、やはり離れているだけに不安も大きいだろうと思います。兄姉とは仲良しなので、情報はきちんと行ってると思います。心配をかけています。
 3人の孫の中で、上はもう高2です。話を聞いたと長いメールをくれました。もう孫たちと直接話せる年齢ですから。春に友だちと我が家に来てくれました。「私は孫7人の一番上だから、ジーのことを一番理解している」と。いい子です。
 下の子は、前から我が家に夏休みに数日泊りに来てくれます。まだ携帯を持っていませんが、母親に自分も頑張っているからと伝言を依頼してくれます。先日は、ソフトボール大会で完封勝利したと是非しらせてくれと。優しい子です。
 
   入院中の家族LINE

 入院中、きつかった日以外は、毎日家族LINEと妻のLINEに状況を載せていました。毎回の食事画像。退院後の食事の三鈷に。はは、食事は一口入れたら50回噛めと。子供たちが、毎回朝晩書き込んでくれます。実は、兄が入院中だけ家族LINEに入れてくれと。二人兄弟ですから、心配かけています。ふふ、我が家の家族LINEを実に羨まし気にしていましたよ。その兄が、私の退院まで断酒祈願してくれていました。退院直後に一人祝杯をあげたそうですが、もうお酒が美味くなくなっていたとか?!はは、もう禁酒ですね。

 2か月も毎日何回もLINEしていましたが、退院して毎日じゃなくていいかと数日LINEしなかったら、娘から急に連絡がなくなって不安だから、時折近況を知らせろとお叱りを受けました。ごめんなさい。これから、抗がん剤の副作用報告をするね。
我が家の家族5人のグループLINEです。それぞれの家族の嬉しいことや事件があれば、すぐに共有できるシステムです。最近では、長男の中2の子がロボコンの大阪大会でプログラマーとして優勝。長女の下の子が小3で英検2級合格。スピーキングは満点。次女の下の小5の子が、ソフトボールで完投勝利。みんなで、喜びを共有しています。愉快です。

 私の今の心境

 私の専門は民俗学です。学生時代の指導者は、葬送儀礼の専門家で、日本人の死生観や葬送儀礼の知識はあります。また職業柄もあり、生徒や保護者・職員の遺体や葬儀経験も。50歳台から仏教にも興味が湧き、多くの寺院も回りました。四国遍路も6週目と中ですが、梯子事故の後お四国に出ていません。退職後、高野山大学に在籍し、10年ほど院生・聴講生として高野山真言宗の勉強もしました。https://piicats.net/bukkyou.htm 独自ドメインのHPをアップしています.。初期仏教の釈尊の考えから大乗仏教まで、弘法大師の思いも学んでいます。生きること、死とは。教えの実践は難しいですが、できることを無理なくすることを目指して今に至ります。

 少しづつ切り捨てるものは捨て、諦めるものは諦めて、欲を少なくし、俗世間との接触も最小に。今はボランティアとしての地域社会への奉仕、毎日の近隣の道路清掃。私を育ててくれた地域へのわずかな恩返しですね。すでに、業務の10年間のデータは、担当者に引き継いでいます。

 孫みんなの記念樹を育てています。庭の木々、草木の世話が日常です。できるだけ自然に同化したくて、離れの床の間や茶室に季節に応じたものをと腐心しています。お軸もお茶碗も、季節に応じたものにして楽しみたいですね。人生の遊行期は、何も野原を彷徨するだけでなく、今の場所でもできますね。「夢は枯野をかけめぐる」芭蕉の心境ですね。家に富岡鉄斎のお軸があります。落款は鉄崖。かれが大阪堺の大鳥神社に寄寓していたときに、一時鉄崖と名乗っていた時があるそうです。根拠となるお軸なら(本物なら)いいですね。仙人鉄崖の姿絵です。毎年、お盆に掛けています。「独り座す 大雄峰」私も鉄崖と名乗りましょうか?!ははは。寒山拾得 (piicats.net)
        
  鉄崖        カリン様(あられちゃん)      レレレのおじさん(バカボン)     寒山拾得

 般若心経に「ぎゃぁてい ぎゃぁてい はらぎゃぁてい はらそうぎゃぁてい ぼんじそわか
  行き行きて、行ける者よ、彼岸に行ける者よ、行きて、静かな涅槃の境地に至り。去り去りて、去れる者よ、彼岸に去れる者よ、去りて、根源的のさとりに入る。彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ。  ここに智慧の完成を終わる」とあります。
  般若心経意訳 (piicats.net)
 入院前に、仏間の床の間に「清寂」のお軸と茶室に「独坐大雄峰」のお軸をかけていきます。
 涅槃寂静。静かに全てを受け入れたいと思います。入院中、読めればと『般若心経秘鍵』を持って行きます。
   
        

  仏間のお軸は10年前亡母が病院からもどったときに遺体を一晩安置し、添い寝した時のお軸です。私が、もしも同じように戻った時にと、掛けて行きました。まあ、結果的には、退院してお軸を「白鶴宿老松」に替えましたが。

入院中の日記

 今の病院は、Wi-Fiが飛んでいて、入院中は携帯電話の使用がOKなんです。以前の入院の時は、1週間後から小さなノートを持ってきてもらいました。今回は、動けるようになったらラインやSNSができます。多くの人に心配かけているんですから、できるだけこまめに報告ですね。コロナ以降、病院の面会は原則無し。手術の時も待合室もなく、病院は患者は一人です。さて、どんなものでしょうか。

令和5年10月14日(土)入院
令和5年10月16日(月)8:30から手術
 母の時には、手術室に入って行くのを見送る側だったのですが、今度は一人で病棟看護師さんに見送られて、一番奥の手術室に向かいます。まあ手術台で横になったら、もう気づいたら病室ベッドです。予想では6-8時間掛かるかと言われていましたが、5時間で終わりました。14:00過ぎでした。担当医が自宅に電話を入れてくださってました。息子と妻が家で待機していましたから、よかったです。
 手術は、胃の全摘と横の肝臓と胃を繋ぐ静脈に大きな瘤ができていて、一緒に摘出。胃の下の小腸を食道とつなぎ、十二指腸を下部に枝のように繋ぐんだそうです。静脈瘤の破裂が一番のリスクでした。

さあ、これからが大変でした。

最初の危機

 二日目、みぞおちのあたりがかなり痛み、呼吸もままならなくなりました。ふうふう。看護師さんが血圧を測ってくれますが、二人とも血圧計が上限を超えてエラーがでます。数人ベッドの側にいたような?すぐに下腹部がバンバンに腫れてきて、激痛が走ります。ベッドで便器を差し込んでくれました。一気に下血。ベット周りまで血しぶきが飛んだらしいです。私は、半分意識がないですから、よくわかりません。今度は座らせようとしたようですが、意識を失いました。血圧が50以下に。左の二の腕辺りに、輸血用点滴ルートを確保し、ワンパック280mlだという輸血パックを5本入れました。どうやら手術の時の縫合部からの出血です。なんとか数日で収まりました。

二回目の危機

 出血から数日で、食事も重湯から三分粥、五分粥。全粥まで来たのですが、どうやら右のドレーンから膿が出てきます。どうも下の縫合部に穴が開いて、十二指腸との縫合部から消化液が出ているようです。で、担当医の判断でまた絶飲食。再手術も考えたようですが、何とか回避。左の二の腕から、心臓上部にカテーテルをいれて、栄養点滴を3週間ほど入れていました。鼻から食道まで吸引機付きの管。これが一番つらかったですね。3週間。私は10年前の転落事故から、肝臓の具合がよくありませんから、回復に時間がかかります。後から聞きますと、かなり数値が悪くなっていたようです。栄養点滴と抗生剤と、肝臓の点滴、カリュウムなど。ドレーンも左のは直ぐ抜けたのですが、右の吸引器付けて点滴台をごろごろ。すでに入院5週目ですね。

担当の先生方

 9月に外科の外来担当の先生が、手術を決めてくださって、入院時の私の担当医は女医さんでした。ラピュタの山賊のママみたいに頼りがいのある実に信頼のおける先生です腫瘍外科(胃・腸)の先生3人が診てくれています愉快だったのは、私の手術が縫合不全だったこともあって、先生方の見解もそれぞれだったようで、毎週のカンファレンスでの見解をお話ししてくれていました。良かったです。親身に検討してもらっているのが、申しわけないほど有難かったです。

病棟の看護師さんたち


■抗がん剤投与記録(新) R5.12.14
仏教の勉強室 (piicats.net)