最近思うこと (永遠の課題)                                         H21.12.6 

『人は、なんで生きるのだろう?』

 ある要因によって、ひとつの存在が誕生します。イメージでは、座標軸の上の一点です。存在は、質量と重量を持っています。その「誕生」した「存在」は常に「秩序」から「無秩序」に向かっていきます。これを「エントロピー増大則」というそうです。 おおざっぱに言って、熱というものは熱い方から冷たい方に向かって流れて逆はありません。基本的には、これが積もり積もったものがエントロピーの増大です。勿論、両者が閉鎖系で無ければこの限りではないのですが、必ずエントロピーは増大していく、つまり、より「平均化」していくわけです。言い換えれば、「誕生」した「存在」は、その瞬間から「死」に向かって変化(「エントロピーの増大」)していくものなのです。

 それを、宗教や倫理では、「善」とか「悪」という「価値」を与えて「解釈」しようとするのです。上記座標軸の考えで言うと、「最初の座標」から「存在」は、下?に下がっていくのでしょうか。何故「高い方(良い)」から「低い方(悪い)」に向かうのか。 単に私たちは、生活経験的に知っているだけです。健康を例にしますと、私たちは最終的には誰も死を免れませんから、私たちの体は、確実にエントロピーに従っています。そして、「正のエントロピー」が勝れば、なんらかの健康障害が出てくるのです。「場のエネルギー」は、「正のエントロピー」を推進し、「負のエントロピー」(無秩序)に向かおうとする動きに修正します。

 しかし、肉体の細胞はまた新しく造り替えられたり、骨が形成されたりします。こうしたものを物理学では、エントロピーに逆らうものとして「負のエントロピー」と呼びます。私たちの体内では日夜、「正のエントロピー」と「負のエントロピー」がせめぎ合い、その中で健康はいつもゆらいでいるといえます。

 滅び行く肉体に対して、私たちの精神はいかがでしょう。精神もまた肉体と同じように「集束」が「拡散」に向かうのですが、逆に「拡散」が「集束」に向かう循環系だと考えます。そしてそれが連鎖されるものと。(曼荼羅の考え方でしょうか?)

「豊穣」は「再生」によってなされることを、これまた私たちはその経験則(自然の摂理)から知っているのです。心の傷は癒やされ、苦痛を快楽に変える力は、誰もが持っています。またその逆も、さらに繰り返しであることも知っているわけです。(日輪と月輪)
 道徳は、私たちにだれもが持っている「負のエネルギー」を発揮すべきだと語ります。今からすぐに「再生」すべきだと説きます。科学は、「正・ゼロ・負」と「時間・空間」を基準にします。しかし、私たちは更に「思念」(観念=情念)を持ち合わせています。それは、時間も空間も超越します。正も負も越えます。この永遠なる連鎖の中に、ただ私たちは、己の「存在」を確かめたいとも思い、「存在していたい」とも思うわけです。

 しかしながら、私たちの「精神」は、あまりにも脆弱で、貪欲で、無恥なのです。メーテルリンクの『青い鳥』の中で、チルチルとミチルの兄妹は、「渇いてないのに飲む幸福」や「飢えてないのに食べる幸福」と出会います。人間は、誰でも底知れない欲望を持っています。いくら希望のものを手に入れても、満足しないで、もっともっと欲しくなります。あまりお腹が減っていなくても、そこにおやつがあると、ついつい手がでてしまうのです。食べ物だけではないです。お金や物、気持ちや生活、そして生命まで全てにおいてです。

 「幸福」とは、身も心も健やかで、満ち足りた思いの中で生活することです。ですが、なかなか「満ち足りた思い」がないのです。貪欲で、今さえ良ければいいという刹那的で、他者を思いやらない利己的な心がどんどん増大して、さらに「渇望」していく恐ろしい遺伝子を、私たち誰もがその体の中のDNAに持っているのかも知れません。

 では、これからどのように生きていけばいいのでしょう。
「禅定(ぜんじょう)」とは、繰り返す「行」によって、「真理」を体得していくものです。何回も繰り返す。毎日、同じ形を繰り返す。薄れることのない様に、継続と持続。昔からすべてのことに、人々は自然にその方法を身に着けていきました。精神訓練も常時し続けないといけませんね。仏前の所作よりも、その所作に到るまでの過程にこそ価値を持つのだと思います。経過する時間に身を置き、その息遣い、心のありよう、そうして、それを越えることにのみ打ち込む自分を感じること。要するに、そこに到るまでの心理、決意する行動力。繰り返し続ける、あくなき求道心。情念の広がり。それこそ、大きな意味があるのだとおもいます。

 必ず終わる人生の旅だからこそ、始めたからには止むことなく、変わりなく続けることです。どこまでいったとか、人より多く行ったとかいう考えには意味がありません。本当の自分の姿を求め続ける「覚悟」こそ、本来の目的でしょう。自分の内面に有るさまざまな、あまりにも俗な要素に、ある種うんざりしていますが、それとうまく付き合っていかないといけません。

「生きる」という行為は、「本質」と「方法」によってなされる社会的営みです。
私たちは、その「本質」を見極めて、最適な「方法」を模索することを続けなければいけません。そうすることが、うまく「生きる」ということなのです。けっして目先の「方法」にばかり眼を奪われていてはいけませんし、「本質」にこだわってもいけません。「本質」とは、「プライド」です。自己の存在意義です。他者の批判や、体制の批評に終始している暇(いとま)はありません。そして、他者への無上の愛が永遠に燃え盛る自分であってほしいと願っています。


どんな社会人になればいいのでしょう。
種田山頭火の庵の名前「其中庵」は、経の一節「其中一人 作是唱言(ごちゅういちにん さぜしょうごん)」を借用したものとされています。『もし、この世に多くの盗賊がおり、その中を諸々の商人が貴重な宝物を持って、険しい路を通り過ぎようとする時、その中の一人が「皆さん、恐れることはありません。仏の御名を一心にお唱えしたなら、仏は必ず救ってくださいます。」と声をかけました。これを聞いた商人達は御仏の名を唱え、その功徳によって盗賊の難から逃れる事が出来ました。』という内容です。

 わたしは、このお経にあるような、そんな人でありたいと思います。
 救世主やヒーローではなく、ましてや、達観した聖人やお坊さんでもない。そうではなく、おおぜいの中の一人であり、ふと誰よりも真理がわかる人でありたい。信仰心がひとより深いとか、状況判断が早くてみんなに声をかけられるというのでもない。ふと自然に口を突いて出てくる人でありたい。

以前、知り合いの受験生にお守りを贈ったことがあります。そのとき、彼にこういいました。「神仏は、あなたを守ってくれるけれども、決して助けてくれないんだよ。」と。その通りだと今も思います。弱い心には、「祈り」に潜む自己欲求(望むこと)があるのです。だからこそ、「助けて」とか「力をください。」と求めるのではなく、なにげなく口から自然に出てくる「信じる心(自信)」こそ、これからさらに大事になっていくのではないでしょうか。

■無常3部作 1.『人は、なんで生きるのだろう?』
        
2.「無常ということ」
         3.「足跡考」