<陶器山七不思議>

泉北ニュータウンと狭山ニュータウンの間に横たわる陶器山付近には弘法大師にまつわる伝説
残っており、「陶器山七不思議」と呼ばれる。以下のようなものであるが、ニュータウン開発にと
もない、これらの伝説をうかがわせるようなものは残っていない。

○「千畳敷」(せんじょうじき) 高倉寺の南方500メートルのところの小高い山の上に赤茶け
た広場があった。ぐるりは松林がうっそうと茂っていたが、ここだけ草も生えずきれいな台地だっ
た。その昔弘法大師が護摩を焚いて天下泰平五穀豊穣を祈られたところと伝えられていた。

○「黄金塚」(こがねづか) マキ塚とも呼ばれたところで千畳敷の南方100メートルの小高い丘
の上に黄金が埋められてあり、夜になると光を放ったという。また、一説に弘法大師が経巻をこの丘
に埋められたことから、巻塚(まきづか)と呼ばれていた。このマキ塚に後世、宝キョウ印塔が建て
られ、灯明をともして灯台の用をなした、と伝えられた眺望絶佳なところであった。

○「梵字ヶ芝(原)」(ぼんじがしば) 黄金塚の東方500メートルの地点で山の中腹に弘法大師
が手に持った楊杖(しょうじょう)で地面に「かんまん」という梵字を掘られた。
10メートル四方で
深さが
30センチくらいあり、千百年以上も経過しているのに少しも埋もれず草や笹も生えず、また字
の姿かたちも崩れず、中にはきれいな水が溜まっていた。これが七不思議のナンバーワンで、ここに
お参りして、溜まった水を飲めば難病も治ると、たくさんの人がお参りしていた。そして、誤って付
近の松の木を切った人がたちまち腹痛を起こし、その場に倒れたことも実際にあった。
    
梵字 カンマン (不動明王の梵字)

○「笹無谷」(ささなしだに) 梵字ヶ芝より東方100メートルほど山道を登れば天野街道(狭山
から天野山へ通じる河泉国境の道路)があり、道路の東側が河内、西側が和泉である。この和泉側一
帯の数百メートルの間には笹が一本も生えず、東の河内側は一面笹だらけであった。昔、弘法大師が
ここを通られたとき、風が吹いて笹の音がバサバサとやかましく、同行の人の話が聞こえないので、
お大師さんがお加持なされたら以後、笹が一本も生えなくなったと言い伝えられる。

○「猫坂」(ねこざか) 天野街道。昔、この地方に大飢饉があったが、当時は交通の便もなく、
遠方からの食糧の輸送が困難であったため、草の根をしがみ、木の実を食べて飢えをしのいでいた。
犬や猫にまで食料を与えることができず、飼い猫をみな山へ捨て、捨てられた猫はみな餓死した。そ
の後、毎年大みそかの晩に、この坂のところにその猫たちが集まってうらめしそうに泣きわめいた。
ちょうどその時、弘法大師がここを通られ、かわいそうにと御回向(ごえこう)をなされたら、それ
以後鳴かなくなったと言い伝えられる。

○「舟の型」 猫坂の南方500メートルの地点、天野街道の道端の山の中にちょうど舟型のくぼみが
あった。昔、弘法大師が支那(中国)から舟に乗って日本に帰って来られて高野山へ登られるとき、
ここに舟を乗り捨てられたが、舟は朽ちても舟の型だけは残ったと言い伝えられる。

○「大師井戸」 舟の型の南方500メートルの地点にあり、上神谷(にわだに)の畑村やおく山村の
近く
である。この地方一帯は井戸を掘ってもあまり水が湧かないところだが、弘法大師がここを通ら
れた時、のどが渇いたので里人に一杯の水を所望されたが、御坊に飲んでいただけるような水はあり
ませんと断られたので、大師が手に持った楊杖を地面に差し込むとたちまち冷たい清水がこんこんと
湧き出したと伝えられる不思議な井戸である。



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