岩室  ~わが故郷~

                                                       H26.6.15
                                           大阪府堺市南区岩室 在住
                                                         piicats

 始めに 堺市南区岩室・晴美台地区の歴史 大阪狭山の岩室 ■40年前の地図 ■岩室の民俗 
 ■岩室の通過儀礼 ■岩室の年中行事 ■岩室の民間信仰
 ■岩室山観音院 ■陶器城 ■陶荒田神社 ■三都神社 ■陶器山七不思議
 ■天野街道 ■高野街道 
■泉北周辺の地名由来 ■泉北ニュータウン50年の歩み

 はじめに

  私の生まれ育ったところは、昔からある古い街道沿いの村です。それが、長い歴史と文化の中で、
 一つの自治体が、行政区分に包含され、いまや、昔の面影が消えそうになっています。

  大都市の郊外地域として、近年ニュータウン開発されて、多くの人が移住してきました。もう50年も
 前になります。30歳で小さな子ども連れだった人が、いま70歳を過ぎて、子供たちも独立し、ニュータ
 ウンの住人も、かなり高齢化し、また人口の減少、空家・空室が目立ちます。

  大きなニュータウンがみんな抱える問題ですが、住民の老齢化がすすみ、独居老人が急増してい
 ます。だから、最近は福祉問題が特に重要になり見直されているのです。

  私が住む地域は、いささか複雑で、昔は山奥の寒村だったのに、ある日開発の嵐で、山が切り開か
 れ、谷が埋まって、人口10万人のニュータウンができました。そして、自治会活動も地域のすべての
 活動がニュータウン主体の行政主導型に変化したわけです。

  いま、私があえてこのタイミングで、自分の住む地域の歴史的変遷や、民俗伝承を語ろうとしている
 には、理由があります。

  いまの社会福祉の仕組みやボランティア活動が、行政主導で多くの行事や奉仕活動を企画し、お世話
 好きの一部の方々が、足腰の弱っておられる老人をその意志に関わらず、行われている感じです。また
 介護を受けるという側も、その家族も、行政に依存し、家庭活動の一部を自分たちの手から放します。
 はたして、いまの介護・福祉制度が、正しいのでしょうか?

  わたしが、先日お話の機会があった時に、「どうか人生の先輩として、私たちにいろいろな機会に、
 ご指導ください。」とお話したら、実に妙な空気が漂いました。どうやら、村落共同体の年寄りと子ども・
 孫たちが一緒に住むときの、それぞれの主体的役割という発想がそこにはありません。いまこそ見直
 されるべきだと思います。

  これも行政の調査報告書ですが、ニュータウンの老人たちの70%の方が、今のお住まいで、最期を
 迎えたいと希望しています。きっと第二の故郷なのでしょう。私が先日この地方の話をしたら、とても
 興味深く反応していただきました。やはり故郷とは?とか、自分の存在意義(アイデンティティー)を問
 うことに、意味を持っているのです。この機会に、皆さんに生きる意味を考えていただき、地域の子供
 たちとの交流や地域活動への自主的参加意識が芽生えたらいいともくろんでいます。

 わたしは、地元の住民ですので、そんな思いにすこしでも答えられたらと、
 これから「わが郷土岩室の話」をします。



 1.岩室の概略(おもに、堺市側の岩室)

  岩室は大阪狭山市と堺市の境界を南北に走る西高野街道に沿って、標高100m前後の
 尾根上に立地する。人口も、明治9年には290人。70戸。(大阪全史)、昭和43年推定71戸
 280名。100年ほど経っても、ほとんど変化がない。平成26年では、狭義の旧岩室地区(堺
 市側と大阪狭山市側)で、新しい転居してきた住民が50戸ほど増加している。

  旧の村の境界は、地蔵様(産土うぶすな地蔵)があった。西の境はこたに池の地蔵(現在
 観音院にある?)、北は十川ゴムの前の地蔵、南は天野街道赤坂(閼伽坂)の地蔵、山本
 との境は「一里塚」だった。

  岩室は、小高い尾根つたいの街道筋の村で、小さい谷は堰き止めて池を作り、下には水田。
 丘には畑。南東や西の斜面では、ミカンやブドウを栽培していた。零細な農村で、田畑の面積も
 少なかった。
 
  堺市側の資料には、耕地面積、明治8年、31町歩あまり。約10000平方メートル。ほとんどが、
 畑地で、山の斜面でミカンやブドウの果樹栽培をしていたとある。

  『堺市史』続第一編 「東陶器村では、昭和3年に大地主児山保之が、その所有の耕地約70
 町歩を小作人300人に全部譲った。」とある。また、一説には、陶器村の共有山林を、陶器神社
 氏子36軒衆で分割したともいわれる。岩室村では、山株と称して7畝(約700㎡)ほどの株を持っ
 ていた家が、6軒あった。それらと関連があるのかもしれない。いずれにしても、村で古くから家
 があった家々であろう。言い伝えでは、開拓百姓は、岩本か北林、中井であろうという。

  堺市側の地区は、1組「観音端(畑)」(かんのんばた)、2組「上(茶組)」(かみ)、3組「下」(しも)、
 の三つに分かれ、堺市と大阪狭山市と行政区は異なるが、一つの村として隣組の単位として活動
 を共にしている。現在では、4組は旧堺の山本地域、5組は中林家の分家(西さん、大師のまじない
 の家)の敷地跡の分譲住宅の住民である。ちなみに、旧地名の隠(かくれ)は、中区陶器北、や
 福田、旧地名の山伏は、狭山市山本北に地名変更がされている。

  生活文化圏は、東の大阪狭山市に属し、西は高倉まで山。北の見野山や山本までは、離れていた。
 生活道路は、池之原に下りるか、おわり坂を下る。学校は、堺市側の子供も本来は東陶器小学校区
 であるが、遠距離なので委託児童として、狭山町立西小学校に通っていた。旧三都尋常小学校であ
 る。狭山ニュータウンができるまでは、狭山中学校1校だった。高校は、学区がいろいろ変更されたが、
 やはり狭山と堺市で区分されていた。

  交通は、昭和30年代に、岩室から堺東行きのバスが一日数本運行されるようになった。見野山、
 上之、辻之、田園から東山、堺東へ。大阪市内には、徒歩か自転車で狭山駅まで出て、南海高野線
 を利用した。

  商店は、八百屋が2軒。たばこ・酒・塩など専売品の店1軒。無医村で、怪我や病気をすると見野山
 を通って福田の医院や狭山の医院まで行った。

  信仰は、江戸期までは、高野街道沿いということもあり、全戸高野山真言宗であった。だから、
 大師伝説(陶器山七不思議など)が、残っている。江戸末期には、天理教信仰の家も徐々に増加した。

  岩室山極楽寺観音院は、大阪狭山市上今熊・岩室、堺市南区岩室両集落の檀那寺であり、境内の
 熊野神社はこの地域の神として住民の信仰を集めてきた。村にあった熊野社や金毘羅社などが、明
 治後期に三都神社に統合され、いまは陶器山北側に地名として宮山が残るのみである。また、明治の
 初めの廃仏毀釈か陶器山麓の赤坂の地蔵様は、顔が壊されている。

  岩室の墓地は、大阪狭山市岩室・池之原・山本のほか、堺市岩室・見野山の人びとが共同で利用して
 きた。1500年代の墓石もあり、おそらく江戸中期には、村落があったと想像できる。

  上之にある陶荒田神社は、延喜式(905年)にも載っている古社で、陶器郷の氏神として、また衣食住
 (生活の神様)の守護神として崇拝を受けている。今も、地域の氏神として初詣や宮参りは、この神社に
 する。今では、堺市側の住民の氏神が陶荒田神社で、大阪狭山市側の住民が、三都神社を氏神として、
 祭礼などに参加している。岩室・山本・隠(かくれ)・山伏のだんじりは両方に宮入りする。歴史的に堺・
 狭山の両方の統治時代を反映している。



 始めに 堺市岩室・晴美台地区の歴史 大阪狭山の岩室
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