岩室  ~わが故郷~
                        

 始めに 堺市南区岩室・晴美台地区の歴史 大阪狭山の岩室 ■60年前の地図 ■岩室の民俗 
 ■岩室の通過儀礼 ■岩室の年中行事 ■岩室の民間信仰 ■今も続く伝統行事
 ■岩室山観音院 ■陶器城 ■陶荒田神社 ■三都神社 ■陶器山七不思議
 ■天野街道 ■高野街道 
■泉北周辺の地名由来 ■泉北ニュータウン50年の歩み
 ■仏教の勉強室
  ■岩室の概要・規約等 
 ※「堺県」(大阪都構想に対して)

 はじめに

 私の生まれ育ったところは、昔からある古い街道沿いの村です。それが、長い歴史と文化の中で、一つの村落共同体が、行政区分によって分断され、いまや、昔の古き懐かしい村の面影が消えそうになっています。

 大都市の郊外地域として、近年ニュータウン開発されて、多くの人が移住してきました。もう50年も前になります。30歳で小さな子ども連れだった人が、いま70歳を過ぎて、子供たちも独立し、ニュータウンの住人も、かなり高齢化し、また人口の減少、空家・空室が目立ちます。西に泉北ニュータウン、南に狭山ニュータウン。

 私が住む地域は、いささか複雑で、昔は山奥の寒村だったのに、ある日開発の嵐で、回りの山が切り開かれ、谷が埋まって、人口10万人以上のニュータウンができました。そして、自治会活動も小学校校区も、地域のすべての活動がニュータウン主体の行政主導型に変化したわけです。そのころから子へのにいたずらや、盗難・交通事故など都市犯罪が増えました。

 いま、私があえてこのタイミングで、自分の住む地域の歴史的変遷や、民俗伝承を語ろうとしているには、理由があります。

 わたしが、先日ニュータウンの方々にお話の機会があった時、「どうか人生の先輩として、私たちにいろいろな機会に、ご指導ください。」とお話したら、実に妙な空気が漂いました。どうやら、村落共同体の年寄りと子ども・孫たちが一緒に住むときの、それぞれの主体的役割という発想がそこにはありません。

 これも行政の調査報告書ですが、ニュータウンの老人たちの70%の方が、今のお住まいで、最期を迎えたいと希望しています。きっと第二の故郷なのでしょう。やはり故郷とは?とか、自分の存在意義(アイデンティティー)を問うことに、意味を持っているのです。この機会に、皆さんに生きる意味を考えていただき、地域の子供たちとの交流や地域活動への自主的参加意識が芽生えたらいいともくろんでいます。

 また近年いくつかの業種の企業が、村の中や周辺に進出してきました。30年も前ですが、谷には産業廃棄物が違法に投棄され、銀色の液体が流れ長い間異臭と煙が出ていました。周辺の田畑が買い占められ、村は混乱しました。次にクレーン車などの大型重機の基地になり、今も朝夕道が揺れます。開発と共に、全く新しい幹線道路ができて道沿いには何軒もの食堂やガソリンスタンド、大手自動車会社の販売店やパチンコ屋さんなど、どんどん開発されました。村にもアパートや新規移住者も増えてきました。残念ながら、地域との共存というよりは、あまりお付き合いのない企業や住民です。また、一年前には谷の池の埋め立てた空き地に、犬の訓練場が開設されました。朝から大型犬の鳴き声が夕方まで響き渡っています。自治会で経営者とも話し合いしましたが、結局は静な平穏な生活が今も外部から侵食され続けています。

 わたしは、古い地元の住民ですので、そんな状況で少しでも皆さんに、「わが郷土岩室の話」をして、理解とみんなで街づくりができていけたらいいとおもいます。。



 1.岩室の概略(おもに、堺市側の岩室)

 岩室は大阪狭山市と堺市の境界を南北に走る西高野街道に沿って、標高100m前後の尾根上に立地する。人口も、明治9年には290人。70戸。(大阪全史)、昭和43年推定71戸280名。100年ほど経っても、ほとんど変化がない。平成26年では、狭義の旧岩室地区(堺市側と大阪狭山市側)で、新しい転居してきた住民が50戸ほど増加している。

 旧の村の境界は、地蔵様(産土うぶすな地蔵)があった。西の境はこたに池の地蔵(現在観音院にある?)、北は十川ゴムの前の地蔵、南は天野街道赤坂(閼伽坂)の地蔵、山本との境は「一里塚」だった。

 岩室は、小高い尾根つたいの街道筋の村で、小さい谷は堰き止めて池を作り、下には水田。丘には畑。南東や西の斜面では、ミカンやブドウを栽培していた。零細な農村で、田畑の面積も少なかった。
 
 堺市側の資料には、耕地面積、明治8年、31町歩あまり。約10000平方メートル。ほとんどが、畑地で、山の斜面でミカンやブドウの果樹栽培をしていたとある。狭山側の東斜面は、隣村中心に茶畑であったようだ。

 『堺市史』続第一編 「東陶器村では、昭和3年に大地主児山保之が、その所有の耕地約70町歩を小作人300人に全部譲った。」とある。また、一説には、陶器神社の所領の山林を、氏子36軒衆で分割したともいわれる。岩室村では、山株と称して7畝(約700㎡)ほどの株を持っていた家が、6軒あった。それらと関連があるのかもしれない。いずれにしても、村で古くから家があった家々であろう。言い伝えでは、開拓百姓は、中区楢葉からきた中井家であろうかという。

 堺市側の地区は、1組「観音端(畑)」(かんのんばた)、2組「上(茶組)」(かみ)、3組「下」(しも)、の三つに分かれ、堺市と大阪狭山市と行政区は異なるが、一つの村として隣組の単位として活動を共にしている。西高野街道沿いの集落と観音院の荘園小作農家集落の二つであったか?観音端には田守、寺西、中野、北林などの苗字が残っている。また、苗字交換の伝承もある。現在では、4組は旧堺の山本地域、5組は中林家の分家(西さん、大師のまじないの家)の敷地跡の分譲住宅の住民である。ちなみに、旧地名の隠(かくれ)は、中区陶器北、や福田、旧地名の山伏は、狭山市山本北に地名変更がされている。

 生活文化圏は、東側の大阪狭山市に属す。池之原地区も以前は岩室村で、今も狭山池や西側堤付近の住所は岩室である。、西は高倉村まで山野。北の見野山や山本までは、離れていた。生活道路は、下高野街道との経路の池之原に下りるか、西高野街道南のおわり坂を下る。

 学校は、堺市側の子供も本来は東陶器小学校区であるが、遠距離なので明治以来、委託児童として、狭山町立西小学校に通っていた。旧三都尋常小学校である。泉北ニュータウンができて晴美台東小学校が近くになり、堺市岩室の子供たちは、堺市南区晴美台小学校区に通うことになった。狭山ニュータウンができるまでは、狭山中学校1校だったが、いまでは中学校も堺市の生徒は、晴美中学校。高校は、学区がいろいろ変更されたが、やはり狭山と堺市で学区が区分されていた。

 交通は、昭和30年代に、岩室から堺東行きのバスが一日数本運行されるようになった。見野山、上之、辻之、田園から東山、堺東へ。大阪市内には、徒歩か自転車で南海高野山狭山駅まで出て、南海高野線を利用した。ニュータウン化で、府道泉北森屋線が野山を貫通してできて、高野線金剛駅・泉北線泉ケ丘まで双方にバスの便ができた。

 商店は、八百屋が2軒。たばこ・酒・塩など専売品の店1軒。無医村で、怪我や病気をすると見野山を通って福田の医院や狭山の医院まで行った。現在は、コンビニが2軒、飲食店や大型店舗、パチンコ店など20数件ある主要幹線道路沿いのにぎやかな集落になった。

 信仰は、江戸期までは、高野街道沿いということもあり、全戸高野山真言宗であった。だから、大師伝説(陶器山七不思議など)が、残っている。

 岩室山極楽寺観音院は、堺鳳の家原寺、高倉寺の末寺か?今は大阪狭山市上今熊・岩室、堺市南区岩室両集落の檀那寺であり、境内の熊野神社はこの地域の神として住民の信仰を集めてきた。村にあった熊野社や金毘羅社などが、明治後期に三都神社に統合され、いまは陶器山北側に地名として宮山が残るのみである「みろくがいと」とよばれる荘園の名残の地名もある。信長の紀州攻めにあい、また明治の初めの廃仏毀釈か陶器山麓の赤坂の地蔵様は、顔が壊されている。

 岩室の墓地は、大阪狭山市岩室・池之原・山本のほか、堺市岩室・見野山の人びとが共同で利用してきた。1500年代の墓石もあり、おそらく江戸中期には、村落があったと想像できる。ニュータウン建設時に墓地を増設し、今では墓地管理委員会が管理している。

 上之にある陶荒田神社は、延喜式(905年)にも載っている古社で、陶器郷の氏神として、また衣食住(生活の神様)の守護神として崇拝を受けている。今も、地域の氏神として初詣や宮参りは、この神社にする。今では、堺市側の住民の氏神が陶荒田神社で、大阪狭山市側の住民が、三都神社を氏神として、祭礼などに参加している。岩室・山本・隠(かくれ)・山伏のだんじりは両方に宮入りする。歴史的に堺・狭山の両方の統治時代を反映している。

    


 始めに 堺市岩室・晴美台地区の歴史 大阪狭山の岩室
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